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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
今回の見どころは、タイトル通り「薩長同盟」でしたが、前回の龍馬と同じく旧態依然の通説通りの描き方なのかと思いきや、ある意味スゴいストーリーでした。
史実では同行していないはずの伊藤俊輔(のちの博文)が木戸と共に大坂に入り、当時居るはずもない龍馬がそれを出迎え、さらに同盟がその翌日に結ばれるという、今までの薩長同盟観を覆す内容だったと思います。

また、薩摩藩と長州藩の英国留学生が一緒に写った写真が同盟締結の契機になるという創作は含まれていましたが、やはりその中心に居たのは西郷であり、西郷が頭を下げる、つまり西郷の決断によって薩長は固く結ばれることになったかのように描かれていましたが、近年薩長同盟において西郷が果たした役割や立ち位置は大きく変化していると言えます。
近年の研究では、家老の小松帯刀の役割が重視されており、最終的な同盟締結の判断は小松が下したものとされているからです。

ただ、西郷が薩長同盟締結に何の役割も果たしていなかったのかと言うと、そうでは無いでしょう。
確かに、小松は当時の薩摩藩の代表であり、実質的な責任者でありましたが、小松が同盟締結を了承する過程において、西郷や大久保が果たした役割は大きかったと思うからです。
西郷が主役の大河ドラマですので仕方ありませんが、安易な形で西郷をヒーロー化するのではなく、もう少し工夫を凝らして、これまでにない薩長同盟における西郷の役割や姿を描いて欲しかったところです。

(薩長同盟)
薩長同盟は、幕末史における一大事件であり、そして薩長が倒幕へと向かう過程において、大変重要な出来事であったと言えますが、その内容や評価については、実は現在も定まっていない状況にあると言えます。
薩長同盟が「武力倒幕を目的に締結されたものではない」ということは、近年の研究で明らかになってきていますが、薩長同盟を両藩の軍事同盟、攻守同盟とは位置付けないとする説や長州藩が薩摩藩に対して一方的に求めた、いわゆる薩摩藩の片務的な義務を記しただけの盟約であったとする説など、様々な学説が呈示されています。

そもそも薩長同盟なる呼称が適切かどうかさえも議論の分かれるところではありますが(本稿では一般的な同盟を使用します)、このように同盟の性格や評価が今なお定まっていない原因は、薩長同盟に関連する史料不足にあると言えます。
特に、薩長同盟とは言いながら、当事者である薩摩藩と長州藩が互いに交わした協定書や合意文書はこの世に存在していません。
これは幕末史に興味を持たれている方であれば周知の事実ですが、意外とご存じない方も多いのではないでしょうか?

今回の『西郷どん』では、木戸が同盟の条件を記した文書を持参し、それに薩摩側が一文付け加える形で合意文書が作成される様子が描かれていましたが、あれはフィクションです。
薩長同盟の内容を現代に唯一伝えている史料は、ただ一つと言っても過言ではありません。
慶応2(1866)年1月23日付けで、長州藩の木戸孝允(当時は貫治)が土佐脱藩浪士の坂本龍馬に宛てた書簡です。
これはとても有名なものですが、木戸が京で結ばれた六ヶ条に及ぶ薩長同盟の内容を書き記した書簡を龍馬に送り、その内容に保証を求めたものです。
木戸が同書簡の中で記した六ヶ条は、次のとおりです。(句読点等や現代語訳は筆者が挿入、作成)


一、戦と相成候時は直様二千余之兵を急速差登し、只今在京之兵と合し、浪華へも千程は差置、京坂両處を相固め候事。(幕府と戦になった場合は、直ぐさま二千名の兵を上京させ、現在の在京兵力と合わせて、大坂へも千名程度を置き、京坂両所を固めること)

一、戦自然も我勝利と相成候気鋒有之候とき、其節朝廷へ申上訖度盡力之次第有之候との事。(幕府との戦で長州藩が勝利した場合は、薩摩藩は朝廷へ申し上げて尽力すること)

一、萬一戦負色に有之候とも一年や半年に決而壊滅致し候と申事は無之事に付、其間には必ず盡力之次第訖度有之候との事。(幕府との戦において、万が一敗色濃厚となった場合でも、一年や半年は持ちこたえられるので、その間、必ず薩摩藩は尽力すること)

一、是なりにて幕兵東帰せしときは、訖度朝廷へ申上直様冤罪は従朝廷御免に相成候都合に訖度盡力との事。(幕府兵が江戸に帰還した時は、朝廷に対して直ぐさま申し上げ、長州藩の冤罪が晴れるように尽力すること)

一、兵士をも上國之上、橋會桑等も如只今次第に而勿體なくも朝廷を擁し奉り正義を抗み周旋盡力之道を相遮り候ときは、終に及決戦候外無之との事。(兵士を上京させたうえ、一橋・會津・桑名が現状のように朝廷を擁立し、正義に抵抗して、周旋のための尽力を遮ろうとする時は、決戦に及ぶほか無いこと)

一、冤罪も御免之上は双方誠心を以相合し、皇國之御為に砕身盡力仕候事は不及申、いづれ之道にしても今日より双方皇國之御為、皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を盡し、訖度盡力可仕との事。(長州藩の冤罪が晴れた暁には、薩長双方は誠心をもって協力し、皇国のために粉骨砕身、尽力することは言うに及ばず、いずれの場合も本日より薩長双方は、皇国のため皇威が輝きを取り戻せることを目的として、誠心を尽くして尽力すること)(『木戸孝允文書』二)



そして、龍馬は木戸からの保証依頼を受け、同書簡の裏側に朱書きで、

「表に御記被成候六條は小西両氏及び老兄龍等も御同席にて議論せし所にて毛も相違無之候(表に記載された六ヶ条は、小松、西郷の両氏と老兄(木戸)と自分が同席して議論した内容に寸分も間違いありません)」

と書き記しました。

これが有名な「龍馬の裏書き」ですが、少し余談を挟むと、この書簡については、よく資料館等で複製を見かけることはありますが、その実物についてはなかなか見ることが出来ませんでした。
しかしながら、平成15(2003)年10月、鹿児島県歴史資料センター黎明館で開催された特別展「激動の明治維新」において、複製ではない実物が展示され、私もその時初めてその書簡を目にしましたが、現在も龍馬が書いた朱色の裏書きの文字が鮮やかに残っており、感動したのを覚えています。

閑話休題。
以上のように、薩長同盟の内容を記した史料は、龍馬宛て木戸書簡しか存在していないと言えますが、一方薩長同盟締結の経緯について記された史料と言えば、木戸の回顧録である「薩長両藩盟約に關する自叙」が最も有名です(『木戸孝允文書』八)。
この木戸の回顧録内に、いわゆるこれまで通説化している話、「薩摩と同盟を結ぶために、はるばる長州から入京した木戸は、薩摩藩側から手厚い饗応を受けたが、その滞在中、一向に同盟締結の話に進展しなかったため、落胆して帰国を決意したが、突如やって来た龍馬が薩長両藩を説得したことにより、話は大きく進展し、最終的に同盟締結に至った」という話が含まれています。
この木戸の回顧録を元にした話が長らく通説化され、さらに薩長同盟締結における龍馬の役割が大きくクローズアップされる原因ともなりました。

しかしながら、現実的に考えると、龍馬が突然登場してきたことによって、政治的そして軍事的な内容をも含んだ同盟が一転して締結に至る、というような単純な形で話が進行するとは到底思えません。
木戸は前出の回顧録の中で、

「在留中、大久保一蔵、小松帯刀、桂右衛門其外相面會するもの数十人、懇志甚厚而て在留殆十数日而て未た兩藩の間に関係するの談に及ばず。余空く在留するを厭ひ、一日相辞て去らんと欲す」

と、京に滞在中、大久保、小松、桂久武といった薩摩藩要人と面会したが、両藩に関係する話、つまり同盟締結の話は出なかったと述懐していますが、同時期に同じく京に滞在していた薩摩藩家老・桂久武の慶応2(1866)年1月18日の日記には、

「八ッ時分より小松家江、此日長の木戸江ゆるゆる取会度申入置候付、参候様にとの事故参候処、皆々大かね時分被参候、伊勢殿・西郷・大久保・吉井・奈良原也、深更迄相咄、国事段々咄合候」(『桂久武日記』鹿児島県史料集26)

との記述があり、小松邸(いわゆる近衛家別邸の御花畑屋敷)において、薩摩藩家老の島津伊勢や西郷、大久保、吉井、奈良原といった面々が木戸と会い、夜ふけまで国事について話し合ったと書かれていますので、木戸の回顧録は額面通りに受け取ることは出来ず、多少の誇張が含まれていると考えられます。
国事について話しただけで、両藩の同盟に関しての話は出なかったとの説もありますが、それは却って不自然でしょう。

ただ、ではこの1月18日から19日の深夜にかけて行われた木戸と薩摩藩要人との会談において、薩長同盟に関する話がまとまったのかと言うと、実際はそうでは無いと私は考えています。
両藩の話し合いは、相当揉めたことが予測できます。
同じく桂久武の日記を見ると、その翌日の1月20日の条には、

「此晩長の木戸別盃致度候間、可参小松家より承候得共、不気色放相断候」

とあり、この日の晩に木戸の送別会が催されたとありますが、これを前出の木戸の回顧録と比較して考えると、木戸は「余空く在留するを厭ひ、一日相辞て去らんと欲す」と述懐していることから、木戸が京を去ることを決意したのが、薩長両藩の交渉が上手く運ばなかったことが原因だったと仮定すると、20日の送別会の段階では、まだ両藩の同盟が結ばれていなかったことを暗に意味しているように考えられます。

薩長同盟の締結日に関しては諸説ありますが、以上のように考えると、同盟締結日は、やはり木戸の送別会が開かれた1月20日以降が自然であると言え、また、木戸は翌21日に京を出発していることから、1月21日が最も自然であるように思います。
また、『坂本龍馬関係文書』二所収の「三吉慎蔵日記抄」の1月23日の条には、

「過ル廿一日桂小五郎西郷トノ談判 薩長兩藩和解シテ王政復古ヲ企圖スルコト 約決ノ次第委細坂本氏ヨリ聞取」

とあり、当時龍馬と行動を共にしていた長府藩士の三吉慎蔵は、龍馬から21日に桂(木戸)と西郷が談判し、約決(合意)を得たとの話を聞いたと書いています。
以上のように考えると、薩長同盟というものは、木戸が京を出発するギリギリの段階で結ばれた可能性が高いと言えるのではないでしょうか。

では、なぜ薩長同盟が木戸の出京直前という慌ただしい最中に、急転直下の末で結ばれることになったのかを考えると、これはあくまでも私見ですが、20日から21日にかけて、次の三つの過程を経たからではないかと考えています。

一、龍馬の入京。

二、西郷と大久保の小松説得。

三、小松の最終決断。


まず、一つ目ですが、龍馬のメモ書きである「坂本龍馬手帳摘要」(『坂本龍馬関係文書』二)によると、龍馬が京の二本松薩摩藩邸に入ったのは1月20日のことです。
龍馬は「廿日 二本松」としか書いていませんが、前出の「三吉慎蔵日記」の同日の条には、「坂本氏及ヒ細川寺内等先選テ入京シ」とあるので間違いないでしょう。

ここからはあくまで推測ですが、二本松の薩摩藩邸に入った龍馬は、おそらくその足でまず西郷と会い、その後に当時御花畑屋敷に滞在していた木戸の元を訪ねたことでしょう。
この時、龍馬は両者から、前述した18日から19日の深夜にかけて行われた薩長両藩の会談の内容や結果を聞いたものと思われます。
薩長両藩の話し合いが平行線を辿ったことを知った龍馬は、ドラマや小説で描かれているように、薩長和解について、西郷や木戸に対して熱弁をふるったかもしれません。

ただ、この龍馬の登場により、同盟話が進展するほど、現実は簡単なものではありません。
なぜなら、当時の薩長両藩は、同盟を結ぶ条件面で折り合いが付いていない状態であったからです。
歴史作家の桐野作人先生は、「締結150年 再考 薩長同盟:長州復権をめざす秘密軍事同盟」(『歴史群像』、2016年6月)の中で、『吉川経幹周旋記』の記述を元にして、

「薩摩藩では久光の「抗幕方針=長州寛典論(長州の処分受諾による戦争回避路線)」の立場から、薩長会談では長州藩に朝幕による長州処分を受託させたうえで、長州赦免を勝ち取るという幕長開戦回避の方針を落しどころに考えていたのではないか」

とし、薩摩藩側が久光の考える基本方針に沿って木戸との交渉を行ったが、

「木戸が「同意の色を見せず候」と、これ以上の処分は絶対受け容れないの一点張りだった」

とし、当時薩長間の交渉が難航したのではないかと推測されています。
このように薩摩藩と長州藩の主張が互いに対立していた状態であったとすれば、一介の浪人であった龍馬の登場如何によって、急に両藩の同盟話が進展するはずがありません。
通説にあるように、薩長両藩がお互いの面子を気にして、なかなか交渉に入ることが出来なかったというのであればいざ知らず、実際にはもっとシビアな問題に直面していたため、龍馬の登場によって話が急転するほど単純なものではなかったのです。

(西郷の果たした役割とは?)
1月18日から19日の深夜にかけて、御花畑屋敷で行われた薩長両藩の会談が物別れに終わったのは、薩摩藩側の出席者に原因の一端があったのではないか、と私は推測しています。

前述のとおり、この会談には、家老の小松、島津伊勢、桂の三人、それに西郷、大久保、吉井、奈良原という面々が加わっていましたが、この中の奈良原幸五郎(のちの繁)という人物は、久光の意向を遵奉し、忠実に実行しようとする家臣であり、後年、倒幕のための挙兵を巡っては、西郷や大久保と意見が対立した人物であったことに注目すべきです。
彼が同席していた以上、薩摩藩側が木戸に対して、交渉をまとめるために久光の方針を譲歩できるような状況になかったのではないかと私は推測しています。

既に、桐野先生の指摘を引用しましたが、薩摩藩側は久光の方針に従い、長州藩が藩主父子の蟄居等の長州処分を受け入れることによって、第二次長州征討を回避しようとする方針でしたが、一方の木戸はと言うと、長州藩はいかなる処分も受け入れるつもりは無く、幕府との対決もやむ無しという主張に固守していました。
木戸としては長州藩を代表して上京してきている以上、譲歩するつもりは全く無かったと思います。なぜなら、薩摩側に譲歩した条件を長州に持って帰れば、長州藩内の諸隊から突き上げを食う可能性があったからです。

木戸には、諸隊から御楯隊の品川弥二郎、奇兵隊の三好軍太郎、遊撃隊の早川渉らが同行していましたが、このように諸隊の幹部の同行を望んだのは木戸自身でした。
元々、木戸が上京に前向きでなかったことは『防長回天史』の記述によっても明らかですが、慶応元(1865)年12月24日付けで、長州藩の井上聞多(のちの馨)が木戸に宛てた書簡には、木戸が希望していた奇兵隊・交野十郎の同行については奇兵隊から断られ、三好なら出せると言われたことが書かれてあり、井上は、

「御望之通りに不参嘸々御不平と相考へ候得ども此人にて御折合可被成候」

と、木戸に対して三好で折り合いを付けてくれるよう理解を求めています(『防長回天史』)。

木戸が上京に際して諸隊幹部の同行を望んだのは、薩摩藩との交渉において、保険の意味合いがあったに違いありません。
つまり、薩摩と提携するにしても、それは木戸の独断で行ったものではなく、諸隊の幹部もその内容に同意したという証拠を残しておきたかったからだということです。
元々長州藩内の諸隊は、薩摩との提携に前向きではありませんでしたから、木戸としては神経質にならざるを得なかったと言えるのではないでしょうか。

以上のような理由から、両藩は条件面で折り合いが付かず、交渉をまとめるには薩摩側が譲歩するしか途は無かったと言えますが、薩摩藩側には奈良原を代表とした保守派が居る状況でしたので、それはままならなかったと思います。
薩摩側の責任者であった小松は、何よりも人の和を大切にする人物です。薩摩側に反対者が居る以上、敢えて長州側に譲歩する必要は無いと考えたのも無理ないことであったように思います。

長州藩側の史料である『忠正公勤王事積』には、次のような興味深い逸話が掲載されています。

「桂は始めて小松、西郷杯と會見致したときに、是れまで薩州と長州との關係は斯様々々であったが、長州の意思は此の通りであると云ふて、従來の行懸りを悉しく演説すると、西郷は初めから終りまで謹聴して、如何にも御尤もでございますと言ふた相であります。嘗て品川子爵から聞いたことがありますが、己れを薩人にすると、木戸の演説には十分突込む所がある、それを如何にも御尤でございますと言ふて、跼んだ儘何も言はなかったのは、流石西郷の大きい所であると話されました」

これは当時木戸と共に上京していた品川弥二郎の証言であり、西郷の度量の大きさを示す逸話として諸書によく引用されていますが、裏を返せば、西郷としては、薩摩藩側の方針と木戸の主張が食い違い、平行線を辿っている以上、「ごもっともでございます」と頷くよりほか無かったように思います。

このように木戸の態度が頑なであったため、薩長両藩の交渉は決裂寸前にまで追い込まれたのではないでしょうか。
木戸は薩摩藩との考え方に大きな溝があることを悟り、帰国すると言いだしたからです。
しかし、1月20日に龍馬が上京してきたことによって、西郷の考えに大きな変化をもたらしたように思います。
あくまでも推測ですが、西郷は龍馬の話を受けて、薩摩藩側が多少譲歩してでも長州藩との提携を確認しておく必要があると考えたのではないかということです。
それが二つ目の「西郷と大久保の小松説得」に繋がるわけですが、薩長両藩の和解と提携は、近い将来必ず必要となることは誰しも認識していましたので、西郷は木戸の主張を取り入れて、薩摩藩側が譲歩するためには、実質的な責任者である小松を説得する必要があると考え、大久保に相談をもちかけたのではないでしょうか。

その傍証はあります。
木戸の送別会が催された1月20日の桂の日記を見ると、「大久保氏ニて西郷江逢候付相頼置候也」との文言があります。
これは桂が体調不良で木戸の送別会を欠席しようと考えていたが、大久保の邸宅で西郷と会ったので、欠席する旨を言付けておいたという意味ですが、この記述からも分かるように、20日に西郷が大久保を訪ねて来ていることが分かります。
これはあくまでも推測に過ぎませんが、この西郷と大久保の談合において、二人はこのまま木戸を手ぶらで長州に帰すべきではないと意見が一致し、小松に対して、木戸が主張する内容を含んだ盟約が結べないか説得を試みようとしたのではないかと思います。
ここでは詳しく言及しませんが、元々西郷は木戸の主張に理解を示していたからです。

そして、三つ目の「小松の最終決断」の過程に移ります。
おそらく西郷と大久保は、木戸が出発する21日までの間に、小松に対して自分たちの考えを説明し、最終的な判断を小松に委ねたのではないでしょうか。
木戸の主張を取り入れた盟約を結ぶことは、ある意味久光の方針とは少し異なる形となりますので、このような大きな判断を当時の西郷や大久保が下せるわけはありません。
冒頭にも記しましたが、当時の薩摩藩の代表は小松であり、彼が実質的な責任者であったからです。
今回の『西郷どん』で描かれたように、西郷が頭を下げて同盟が締結されるような簡単な話ではなく、藩の方針を動かすには、小松を説得するしか手はないのです。

そして、西郷や大久保から説明を受けた小松は、最終的に同盟締結に関してGOサインを出したのではないでしょうか。
小松としては、木戸の主張を聞き入れても、文書に残さない形にさえすれば、久光に対しては十分説明可能だと判断したのかもしれません。
また、大久保がこの後すぐに帰国することになっていましたから、大久保から久光に対し、上手く趣旨を説明するよう言い含めたやもしれません。

こうして、1月21日、小松と西郷の二人と木戸と龍馬が同席のうえ、御花畑屋敷において、六ヶ条の薩長同盟が結ばれました。
小松と西郷が帰国する直前の木戸を呼び止めた、というドラマチックなことは無かったかもしれませんが、いずれにしても木戸が帰る直前に最後の話し合いが持たれ、お互いに口頭で了承に至ったのが「薩長同盟」であったと考えるのが、最も自然に理解できるような気がします。

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近衛家別邸 御花畑御屋敷跡(京都市)
※矢部宮肥後守さんご提供

また、このような別れ際の短時間で話がまとまった提携であったこと、さらに薩摩藩側が文書に残さない形を希望したことから、薩長の合意文書が作成されなかったのではないかと推測します。
このような状況での同盟締結であったことから、木戸は後日それが履行されるかどうか不安に思い(この辺りが神経質な木戸らしいと思います)、また、藩内への報告用として、同盟締結の場に立ち会った龍馬に対し、裏書きを求める書簡を書き送ったという風に考えれば、一定の筋は通るのでは無いかと思います。

そして、前述のとおり、龍馬はその木戸の依頼に対して、「表に御記被成候六條は小西両氏及び老兄龍等も御同席にて議論せし所にて毛も相違無之候(表に記載された六ヶ条は、小松、西郷の両氏と老兄(木戸)と自分が同席して議論した内容に寸分も間違いありません)」と裏書きしました。
ただ一点、龍馬の裏書きを見て不思議に思うのは、薩長同盟締結の際に同席した薩摩藩関係者の中に大久保が含まれていないことです。
大久保が帰国準備のために多忙であったからだと理解できなくもないですが、想像を膨らませるならば、大久保の役回りは、奈良原ら藩内保守派の押さえに動いていたからだと考えられなくもありません。
今回の『西郷どん』で描かれたような、会見の場に藩士たちが雪崩れ込んでくるようなことは当然無かったでしょうが、大久保が説得役を買って出た可能性はあると思います。

また、もっと想像を膨らませるならば、この同盟締結が久光の不興を買った場合を想定して、西郷と大久保が話し合い、どちらかが生き残れるようにしたのかもしれません。
これはあくまでも想像ですが、寺田屋事件前の二人のやり取りの前例もありますから、あり得ない話では無いと思います。

後半はかなり推測を挟んだ話が多くなりましたが、以上のように、薩長同盟を結ぶか否かのイニシアチブは、西郷や大久保にあったのではなく、最終的には小松が握っていたことは間違いありません。
薩長同盟における西郷は、薩摩藩側の代表者という立場ではなく、あくまでも上京してきた長州藩士たちの応接役に過ぎず、西郷が果たした役割とは、木戸と小松の意見を最終調整したことにあったのではないかと思います。


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【2018/08/27 18:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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ukoji
大河は朝ドラ感覚で見てます

西郷と大久保は実力者ですけど
この時の京都での薩摩の代表者は小松でしょうし
小松もかなり優秀な人物ですから
藩どうしの交渉となると小松を軸とするのが道理でしょうね

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この記事へのコメント
大河は朝ドラ感覚で見てます

西郷と大久保は実力者ですけど
この時の京都での薩摩の代表者は小松でしょうし
小松もかなり優秀な人物ですから
藩どうしの交渉となると小松を軸とするのが道理でしょうね
2018/08/27(Mon) 23:33 | URL  | ukoji #4tZXgICc[ 編集]
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