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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
(西郷と討幕)
『西郷どん』では、かなり早い段階から、西郷が「討幕」を決心していたかのように描かれてきました。
私が「倒幕」という言葉ではなく「討幕」と書いたのは、NHKの公式Webサイトが「討幕」という言葉を使用しているからですが、拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』でも書いたとおり、当時の西郷は「討幕」など考えてはいません。
その根拠は明確です。
慶応3(1867)年8月14日、京の小松の寓居で行なわれた小松、西郷、大久保の薩摩藩要人と長州藩士・柏村数馬、御堀耕助との会談記録が『修訂防長回天史』の中に「柏村日記抄」として収録されていますが、その会談時に薩摩側のおそらく西郷と思われる人物が、

「弊藩に於て討幕は不仕(弊藩において「討幕」はしません)」

と、はっきり語っているからです。
ここは薩摩藩の倒幕運動を考えるうえで、とても重要な点ですが、ドラマの制作者側はこの事実を知ってか知らずか、とにかく無視して話を進めています。
なぜなら「討幕派 vs 幕府」という二項対立関係にしなければ、ドラマが分かりにくくなるからです。
平たく言えば、いわゆる「善 vs 悪」の構図に持って行った方が単純明快だということです。

しかしながら、実際の歴史がそんな単純な対立で動くはずはなく、種々様々な過程を経た末に幕府が倒れ、戊辰戦争が起こることになるわけですが、その政治的な変遷や過程を見せるには、余りにも時間が少なく、そして内容が複雑、難解になるがゆえに、ドラマで描くことは敬遠したのでしょう。
ただ、そこを上手く描くことが、脚本家の腕の見せどころだと思うんですけどね。

また、この政治的な変遷や過程をきちんと描いておかなければ、西郷という人物の正確な評価が下せず、その人物像が不明瞭となるばかりか、この過程を端折ることによって大きな誤解が生じます。
それは「西郷は初めから幕府を倒そうと考えていた」というものです。
つまり、西郷が最初から幕府を武力で討伐しようとする「武断派」であったかのような誤解を生む原因になるということです。

ただ、私から言わせれば、この誤解が一番タチが悪いもので、いわゆる「江戸攪乱工作」などという、西郷が武力で幕府を倒すために陰謀を仕掛けたなどという虚説を生み出した根本原因になっていると言えますが、よくよく考えると、現在の『西郷どん』はこの誤解に基づく路線で描かれています(苦笑)。
ドラマの制作者側は、この誤解通りに西郷を描いていることに対し、一切の抵抗を感じていないのでしょうか?
もし『西郷どん』が、西郷隆盛という人物の虚像を否定し、その実像を浮かび上がらせ、再評価を目指すものであったとしたならば、前述の誤解を解くべく、どんなエピソードよりもそれを優先して、西郷の考えや実像を丁寧に描くべきだったと思いますが、それをしていない、いやしなかったということは、単なるエンターテイメント志向に過ぎなかったということです。

私は史実云々などという、そんな細かいことを言っているのではありません。
この倒幕に到る過程は、慶応期における西郷評価の根幹部分であり、そして西郷が武断派であったという誤解を解くためにも、正確にそして丁寧に描く必要があったにもかかわらず、それを今回のように、まるで歴史的な事実を表面上継ぎはぎしただけで描いてしまっては、何のための西郷が主役の大河ドラマなのかがよく分かりません。
「大河ドラマは元々エンタメドラマだから、余り固いことを言わなくても良いのでは?」と主張される方もおられるでしょう。
しかし、毎週テレビに西郷隆盛が主役で登場し、そしてこのような形で世間の注目を浴びる機会は、おそらくもう二度と訪れることはないでしょう。
つまり、今年は西郷に被せられた虚像を剥がす絶好の機会であったにもかかわらず、そのチャンスを生かそうとせず、旧態依然の西郷像を踏襲して垂れ流しているのですから、もったいないとしか言いようがありません。
私のように、長年西郷隆盛を愛し、そして調べてきた者にとって、それが本当に残念で仕方がないのです。

(四侯会議)
今回のドラマ内でアッと言う間に描かれた「四侯会議」は、薩摩藩の、そして西郷のターニングポイントともなった重要な出来事であったと言えます。
四侯会議をちゃんと描かなければ、「西郷がなぜ武力を背景にした政権奪取策を考えるに到ったのか?」がよく分からなくなるのですが、今回の『西郷どん』は完全に流してしまいましたので、ここで少しまとめておきたいと思います。

四侯会議とは、簡単に言えば、国内政治の主導権を幕府から雄藩連合側に奪うために構想されたもので、薩摩藩の島津久光を筆頭に、前越前藩主の松平春嶽、前土佐藩主の山内容堂、前宇和島藩主の伊達宗城といった、当時賢侯と呼ばれていた四人の人物を京に招集し、その合議によって朝議を主導しようと試みたものでした。
いわゆる有力雄藩による公議政体構想を実現しようとした試みであったわけですが、そこに立ちはだかったのが第15代将軍・徳川慶喜です。

今回のドラマ冒頭で紹介されていましたが、慶応2(1866)年7月20日、第14代将軍・徳川家茂が大坂城において21歳の若さで急死しました。
家茂が薨去したことにより、その跡目については、通常ならばヒー様こと一橋慶喜が継ぐのが順当であったと言えますが、事はそう簡単にはいきませんでした。
『徳川慶喜公伝』三によると、

「将軍薨去の報傳はるや、天璋院夫人は、「御遺命のまヽ田安亀之助を」と仰せられしに、和宮は、「唯今の時勢、幼齢の亀之助にては如何あるべき、確かなる後見の人なくては協はざることなれば、然るべき人體を天下の為に選ぶべし」と表方へ仰出さる」

とあり、家定夫人の天璋院と家茂夫人の和宮とでは、意見が分かれていたとあります。
この両者の言葉に代表されるように、江戸においては、将軍継嗣について大きく意見が割れていました。
だいぶ以前にも本ブログで書きましたが、慶喜という人物は、実父である元水戸藩主・徳川斉昭の評判の悪さが影響を与え、元々大奥方面では人気が無く、また、長らく江戸を留守にし、幕閣とも疎遠になっていたことから、当時慶喜を将軍継嗣に推す声はそれほど多くなかったと言えます。
家茂の薨去後、慶喜は徳川宗家を継ぐことを了承しながらも、将軍職を継ぐことは固辞するという、一見不可解な行動をとったのは、こういったことにも原因があったと思われます。
つまり、慶喜としては、元々人気の無い自分がすぐに将軍に就任すれば、将軍職欲しさに動いたと批判されることを考慮し、周囲の者たちから推される、つまり待望されて将軍に就任するという形を取りたかったということです。

ちなみに、慶喜の回想録である『昔夢会筆記』には、家茂が薨去し、慶喜自身の将軍継嗣問題が浮上した際、慶喜が近臣の原市之進に対して、「この際断然王政の御世に復して、ひたすら忠義を尽くさんと思うが、汝の所存はいかに」と語ったという逸話が入っていますが、これは後付けの話に過ぎないでしょう。
慶喜が将軍職就任に色気を持っていたことは、他の史料を勘案してもまず間違いないと思われますが、慶喜としては、自らの野心により、将軍職に就いたわけではないことを後世に語り遺しておきたかったのだと思います。
そんな慶喜も、結局は慶応2(1866)年12月5日、第15代将軍に就任することになります。

慶喜が将軍に就任した頃の西郷は、雄藩による公議政体構想を実現するため、久光を始めとする四人の賢侯たちを京に集めて会議を行う、いわゆる「四侯会議」の開催に並々ならぬ強い意欲と熱意を持ち、それに全てを賭けていたと言っても過言ではありません。
慶応3(1867)年2月晦日付けで、西郷が大久保に宛てた手紙には、

「此の度の衆議相決せず候か、又は御決定在らせられず候得ば、退身の含みに御座候故、強く申し建ても致さず候得共、案外の事にて、我輩は飛揚此の事に御座候」(『西郷隆盛全集』二)

とあり、重臣会議で久光の上京案が認められなければ退職するつもりであったが、案外簡単に事が運んだので、飛び上がらんばかりに嬉しかったと書いています。

また、同大久保宛て西郷書簡によると、その重臣会議後、西郷は家老の桂久武島津伊勢と共に久光と藩主・茂久に拝謁し、そこで久光の上京を取りつけることに成功しました。
そしてその後、西郷は慶応3年2月13日、同志の吉井幸輔と共に藩船・三邦丸に乗り、前土佐藩主・山内容堂の上京を実現すべく、一路土佐へと向かいました。
勝田孫弥『西郷隆盛伝』には、次のようにあります。

「隆盛の高知に着するや先づ福岡孝悌に會し、而して後容堂に面謁したり、隆盛即ち久光の命を述べ其意見を説明したりしが、容堂は直に隆盛の説を賛成して曰く、抑も我山内家は元來徳川家に對しては恩義の関係尤も深し、然りと雖も皇國の為に公論正義に従ひ、以て進退を決すべきは是れ天下の至道なり、須らく全力を擧げて之に盡さざる可らずと断然確答し、隆盛が猶高知に滞留せるの日既に上京の命を藩内に達したり」

西郷と容堂の面談の様子については、前出の大久保宛て西郷書簡にも出てきますが、そこには「気味能き御返答にて、生きて再び罷り帰らずと迄仰せられ」(『西郷隆盛全集』二)と、容堂が並々ならぬ覚悟と決意を見せたとあります。

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山内容堂・西郷隆盛会見の地(高知市)

このように、容堂はすんなりと上京することを確約したことから、西郷はその足で伊予の宇和島へと向かいました。
久光、容堂に続く三番目の人物、前宇和島藩主・伊達宗城に上京を求めるためです。
『伊達宗城在京日記』によると、西郷が宇和島に着いたのは同年2月23日のことで、その翌日、西郷は宗城に拝謁し、上京を求める趣旨を説明しました。
それに対して宗城は、「委細致承知御趣意御尤之儀御同意ニ存候、尤當今救時之大策着眼ハ更ニ無之候得共、兼々御同盟之事故可致上京」(『伊達宗城在京日記』)と、その趣旨に同意し、上京すると答えたとありますが、前出の大久保宛て西郷書簡には、

「宇和島は余程因循の御説にて、上京成さるとは御返答在らせられ候得共、覚束なく思われ候」(『西郷隆盛全集』二

とあり、宗城は上京するとは言いながらも、曖昧な返事に終始していた様子がうかがえます。西郷はそんな宗城の態度に対し、心許ない印象を持ったのです。

ちなみに、以上のような西郷と容堂、そして宗城との面談内容については、土佐脱藩浪士の中岡慎太郎が鹿児島を訪れた際、西郷や吉井から直接話を聞き、それを日記に書き留めています(「行行筆記」『中岡慎太郎全集』所収)。
その中岡の日記に一つ面白い話が入っています。
中岡の記述によれば、西郷と宗城の面談が終わり、その後、酒宴になった際、宗城が西郷に対して、

「吉之助、京都に愛女があるか?」

と尋ねたところ、西郷が、

「御座候」

と答え、さらに宗城が「名は何と云うや?」と尋ねると、西郷が「此れは申上ましたとて何にも不相成事故、今少し何か御為に相成ることを御尋ね被下度」と返しました。
これはとても有名な逸話で、西郷が「御座候(ございます)」と言った愛人とは、いわゆる「豚姫」と呼ばれた女性(『西郷どん』ではハリセンボンの近藤春菜さんが演じています)を指すと言われていますが、元来これは酒席での話であり、西郷が宗城の問いかけに対して、体良くあしらっている様子がうかがえますので、西郷がまともに対応したものでは無く、適当に相づちを打つ程度で答えただけで、豚姫を指すものでは無いように思います。

閑話休題。
このように、西郷は自ら四国にまで出かけ、容堂と宗城を上京させるべく尽力したわけですが、もう一人の主役である前越前藩主の松平春嶽については、家老の小松帯刀が一役買いました。
慶応3年3月22日、当時京に居た小松は、岡崎の越前屋敷を訪ね、越前藩重臣の酒井十之丞と面会し、久光が上京することになったことを告げ、併せて春嶽の上京を求めました。
『続再夢紀事』六には、「大隅守愈上京する事に決し本月廿日鹿児島を發すへし、就而は大蔵太輔殿にも速に御上京在らせらるヽ様御相談に及ふへき旨申遣はせり」と、小松が来訪した趣旨が記されています。

こうして春嶽の上京も決まり、慶応3年3月25日、久光はその先陣を切るように、西郷と兵士六隊(およそ七百名)を引き連れて鹿児島を出発、4月2日に大坂に着き、12日に京の二本松藩邸に入りました。
久光にとって、これが通算四度目の上京です。
そして遅れること3日、4月15日には伊達宗城が、4月16日には松平春嶽が相次いで入京し、残るは土佐の山内容堂を残すだけとなりました。

ここからは四侯会議の経緯について最も詳しい越前藩の記録である『続再夢紀事』六を元にして、時系列で分かりやすく書いていきたいと思います。

春嶽が上京した翌4月17日、小松が久光の名代として春嶽の元を訪ねました。
『続再夢紀事』六によると、春嶽は小松に対し、「上京してきたのは、久光の求めに応じただけでなく、朝廷や幕府からも上京するよう仰せ出されたからであって、特段良策を持ってのことではない」と述べましたが、小松はそれに対して、「大隅守とても御同様にて別段に見据へたる事なく御集會之上御相談に及ひ御決議の次第を朝廷へ言上すへしとの事」と返したとあります。
この時点において、四侯会議を画策した薩摩藩首脳部(小松、西郷、大久保)の間には、一定の方針があったと言えますが、今回四人の賢侯を京に集めようと画策したのは、四人の合議による力によって、幕府に対抗しようと考えたものであったので、小松としては、主役は久光だけでは無いことを春嶽にも示しておきたかったのでしょう。

それを受けて、4月21日、今度は春嶽が宗城と共に薩摩藩邸に久光を訪ねました。
この時点でまだ容堂は上京していなかったため、まずは三人で顔合わせと簡単な打ち合わせを行おうと考えたのでしょう。この時の会談内容についても『続再夢紀事』六に詳しくありますが、その席上で久光は、大変重要なことを二人に対して告げました。
将軍・慶喜が大坂城で英仏蘭米の四カ国の公使等と引見した際、兵庫を開港することを確約したという話です。
また、この時久光は、小松がイギリスの通訳官アーネスト・サトウから聞いた話として、イギリス人が兵庫開港確約について新聞紙上に掲載して良いかと老中に問い合わせたところ、幕府側は「苦しからず」と答えたようだと二人に対して話しました。

この日からさかのぼること約1ヶ月前の3月25日から数日間にかけて、慶喜は大坂城に四カ国の公使等を招き入れて、それぞれ引見しましたが、その際、朝廷から未だ勅許を得ていないにもかかわらず、兵庫港を約束通り開港すると宣言していました。(今回の『西郷どん』で描かれたフランス公使・ロッシュとの会談は、この引見よりももっと前、2月6日、7日のことです)
これを知った久光は、不快感を露わにしました。
兵庫開港については、まだ幕府から朝廷に対してお伺いを立てている最中であり、諸藩にも意見を求めている状況であるにもかかわらず、外国人に対して、既に開港を確約したことは順序が逆で不都合ではないかということです。
『続再夢紀事』六には、春嶽と宗城もその久光の意見に同意したとありますが、この兵庫開港の件については、四侯会議における重要案件となるのです。

そして5月1日、ようやく土佐の山内容堂が入京しました。
これで四侯会議の四人の主役が全て京に出揃ったわけですが、その3日後の5月4日、越前藩邸において、初めて四人全員が集まり、今後の予定について話し合った結果、明後日の5月6日に摂政の二条斉敬を訪ね、今後の朝政の順序(何の課題から手を付けるのか)と当時の懸案事項となっていた朝廷の議奏と武家伝奏の人事案件(当時後任が決まっていなかった)について話すことを決定しました。

このように四人打ち揃い、まずは摂政の二条に拝謁することになりましたが、その前に西郷は、久光に対して建白書を書いています。
四侯会議開催中、西郷は何と合計四通もの建白書を書き、久光に差し出していますが、これは西郷文書中でも異例の多さです。
この事実をもってしても、西郷の四侯会議にかけた熱意がうかがい知れますが、西郷はその最初の建白書(以後「建白書1」と略す)において、前述の議奏武家伝奏の人事案を示し、三条実美を天皇の補佐に求めるよう、久光に対して建言しました。

議奏と武家伝奏の人選について、西郷がこだわりを見せたのは、この両職が四侯会議の成否を決める重要な役職であると認識していたからです。
議奏とは天皇への上奏を取り次ぐ役目であり、武家伝奏は武家の奏請を朝廷に取り次ぐ役職です。
西郷は四侯会議を成功に誘うためにも、この両職には反幕・親薩長の公卿を据える必要があると考えていました。西郷の書いた建白書1には、大久保の筆跡で両職の候補者の名が記された付箋が付けられており、それはすなわち、西郷と大久保が相談して決めた人事案であったことを物語っています。
四侯会議の前哨戦は、この議奏・武家伝奏の人選から始まったと言えるのです。

また、西郷が建白書1の中で、現在都を追われて太宰府に滞在していた三条実美を天皇の補佐にするよう求めたのは、三条の取り扱いこそが、長州赦免を成し遂げる大きなキーポイントになると考えていたからでしょう。
これはある意味、長州赦免運動の実行を基本とした「薩長同盟」を薩摩側が忠実に履行しようとしていたことを証明するものとも言えましょう。

しかしながら、5月6日に行われた二条摂政と四侯の面談において、二条は薩摩側が要求した議奏・武家伝奏の人事案を拒否しました。
その結果を受けて西郷は、二回目の建白書(以後「建白書2」と略す)を久光に差し出していますが、そこには西郷の四侯会議における基本方針が詳細に語られており、大変興味深い文書と言えますが、少し順を追って内容を見てみると、この建白書2において西郷は、四侯会議の懸案事項は大きく分けて次の三つであると主張しています。

一、長州処分
二、五卿処分
三、兵庫開港

西郷は「三ヶ条の御難題と申す御所置に付いては、いずれ理と勢いを明らかに察せられ、順序相立てず候わでは悉く瓦解仕るべき儀と存じ奉り候」(『西郷隆盛全集』二)と書いていますが、「一、長州処分」と「二、五卿処分」とはセットとも言うべき問題でしたので、実質的に四侯会議の議題は、「長州処分」「兵庫開港」の二つにあったと言えます。

まず、西郷は長州処分について、幕府(つまり慶喜)の考えや方針を問うたうえで、もし慶喜が三伐(三度目の長州征討)を行うと主張した場合は、「全く不条理の戦いに陥り候訳に候得ば、三伐に付いては今一層の罪を増し、全くの私闘に立ち至り候」と、その非を問う必要があると主張しています。
また、兵庫開港については、各国との協定上、開港の期限はまだ先のことであり、また、前述のとおり慶喜は、英仏蘭米の四カ国の公使等に対して、既に兵庫開港を確約していることから、「御急務中結尾の御所置」と、最後に解決すべき問題であると論じています。

この長州処分と兵庫開港のどちらを先に決着するか、という順番を巡り、後に久光と慶喜は激しく対立するのですが、それは一先ず置き、西郷はこの建白書2の中で、慶喜が道理に叶わない行動に出た場合は、「賢侯方合従の御勢力相備え候えば、理を尽して御進み相成り候て、事行われ申すべく」と、四藩が連合して事にあたればそれを阻止できると述べ、さらに、

「其の節は幕府は御離し相成り候て、朝廷の開港条約に御振替え成さるべき儀と存じ奉り候」(『西郷隆盛全集』二)

と、「幕府から外交権を奪い取り、朝廷と諸外国との開港条約を結び替えた方が良い」と主張しています。
また、西郷はそのようになれば、「天下挽回の御時節」だと論じていますが、これは「幕府から政権を奪取する良い機会になる」という意味です。
これは非常に思い切った建言です。
いわゆる「王政復古」のことに言及しているからです。

その後、四侯会議は5月10日に薩摩藩邸で久光、春嶽、宗城の三人が集まり、その2日後の5月12日には土佐藩邸に四人全員が集まって、5月14日に四人揃って二条城に登営し、慶喜に拝謁することが決まりました。
そして、その直前に西郷は大久保と共同で、三通目の建白書(以後「建白書3」と略す)を久光に対して差し出しています。
この建白書3は、慶喜との面談における心得と言うべきものであり、対慶喜に対する戦術を久光に対して説いたものだと言えますが、西郷はその建白書の中で、「公道を以て御説破在らせられ、感服致され候様御議論在らせられたき儀と存じ奉り候間、外の御方々様と得と御打ち合わせ相成り、御論一徹に相立ち候様御座ありたく」と、慶喜を公正な道理をもって説破し、慶喜が感服するような議論を行って欲しいとの願望を述べ、そのためには他の三侯とも十分に打ち合わせを行ったうえで、四藩一致した論理で話を進めるべきだと主張しています。

また、西郷は建白書3の中で、次のような注目すべきことを書いています。

「いずれ天下の政柄は、天朝へ帰し奉り、幕府は一大諸侯に下り、諸侯と共に朝廷を補佐し、天下の公議を以て所置を立て、(中略)、万民初めて愁眉を開き、皇国のために力を尽さんことを冀い、人気振い起り挽回の期に至り、一新致すべき事と、大道を以て御諭解在らせられたき儀と存じ奉り候」(『西郷隆盛全集』二)

つまり、ここで西郷が言っているのは、大政奉還と王政復古のことです。
西郷は「国内政治を一新するためには、幕府が政権を朝廷に対し返還することが必要である」ということを慶喜に対して大道をもって諭すよう、久光に対して建言しているのです。
さらにもう一つ注目すべき点は、「幕府は一大諸侯に下り、諸侯と共に朝廷を補佐する」とあることです。この記述から考えると、当時の西郷は、幕府の主宰者たる徳川家の政権参与を認めているのです。

ここで考えなければならないのは、この時点で西郷が幕府を武力で倒すつもりがあったのかどうかという点です。
前出のとおり、建白書3には「幕府は一大諸侯に下り、諸侯と共に朝廷を補佐し」という文言があることから考えても、当時の西郷は幕府を武力で倒すつもりが無かったことが分かります。
また、同建白書3には、「天下の公論を以て申し上げ候儀にて、全く幕府の御威光を殺ぐ抔と申す訳には更にこれなく、世勢的当の論却って幕府の御為と存じ奉り候」との文言もあり、当時の西郷の政治的なスタンスが分かります。
西郷の政治的な立ち位置は、幕府と諸侯が一体となって朝廷を支え、朝威を上げるというものであり、あくまでも幕府が非道な処置・行動に出た場合には、幕府から外交権、ひいては政権を奪取しようとするものであって、幕府そのものを打倒しようとするものではありません。
ましてや、西郷は武力をもって幕府を討つなどという激しい主張も一切行っていません。
その点から言えば、今『西郷どん』で描かれている西郷像は、はっきり言って「虚像」以外の何物でもないのです。

また、西郷は続けて四通目の建白書(以後、「建白書4」と略す)を書いて久光に差し出していますが、この中で西郷は、長州処分と兵庫開港の順序について強く論じています。
西郷は「差別順序を以て御建言在らせられ候」と書いたうえで、

「長州御所置を先に仰せ立てられ候訳に御座候。兵庫開港の儀は後に相廻され候処、理勢然るべき儀にて」(『西郷隆盛全集』二)

と、兵庫開港よりも先に長州処分を決着すべきだと論じています。
西郷は「長州の冤罪を御解き成らせられ候得ば、天下人心の定まる処出来」と、長州処分を先に行うことで人心を安定させることが先決だと書いていますが、これは現在の政情の混乱が、幕府が行った一連の長州征討を始めとする失策や失政が原因なので、国外問題よりも先に、まずは国内問題を片付けるべきであるとの考えから書かれたものです。
西郷が建白書4の中で、

「当時においては人心安堵の廉を御見留め付けさせられず候わでは、何迄も混雑仕るべき儀と存じ奉り候」

と述べていることからも、まず幕府はこれまでの失政を悔悟し、人心を安定させることに力を注ぐべきであると考えていたことが分かります。
また、「長州の冤罪を解く」ということは、建白書1で三条実美を天皇の補佐に求めたことと同じく、薩長同盟の履行を意識したものであり、当時の西郷はその点においても長州処分を先決することにこだわっていたと言えます。

このように、西郷は四侯会議を成功させるべく、四通もの建白書を書いて久光を説き、そして鼓舞しましたが、最終的に慶喜の巧みな政治手腕によって、四侯会議は瓦解へと追い込まれました。
西郷は建白書3の中で慶喜のことを

「大樹公には橘詐権謀の御方」

と評し、「御正論を御凌ぎ成られ候儀明らかに御座候」と、会議の中で慶喜が正論を遮ってくることは明らかだと言っています。
以前本ブログでも書きましたが、この記述からも明らかなように、西郷と慶喜に元々信頼関係など構築されてはいないのです。

また、このような慶喜に対する見方は、西郷だけでなく大久保も同様です。
少しさかのぼりますが、慶応2(1866)年9月8日付け西郷宛ての大久保書簡には、慶喜のことが次のように書かれています。

「殊ニ橋橘詐百端之心術至平ヲ以賢侯之公論ヲ容れ候儀も無覚束」

先ほどの建白書3とほぼ同じ表現です。
「一橋公は橘詐百端の心術の人物で、至公至平をもって賢侯の公論を容れる事は覚束ない」ということですが、このように西郷と大久保から見た慶喜とは、権謀術数を操る油断ならぬ人物であったのです。

ここでその他の慶喜評を少し引用すると、例えば、土方久元の『回天實記』の慶応3年3月21日の条には、木戸孝允(当時は準一郎)が慶喜のことを次のように語ったと書かれています。

「今也關東政令一新兵馬之制亦頗可見者アリ、一橋之膽略決テ不可侮、若今ニシテ朝政挽回之機ヲ失ヒ、幕府ニ先ヲ制セラルヽ事アラハ、實ニ家康之再生ヲ見カ如シ」

これがいわゆる慶喜が「家康公の再来」と呼ばれる典拠です。木戸も慶喜の才能を大いに認め、恐れていたことが分かります。

また、当時薩摩藩と歩調を合わせていた岩倉具視が、慶応3年4月26日に中山忠能正親町三条実愛に対して呈示した「航海並ニ済時ノ策議二篇」に付けた副書には、

「殊ニ今ノ将軍ノ動止ヲ視ルニ、果断勇決志望亦小ナラサル様被考候、決シテ軽視ス可カラサル、一の勁敵ト存候」(『岩倉公実記』)

とあり、岩倉は慶喜のことを「一番の強敵」と評しています。

このように薩長側から見れば、将軍に就任した慶喜は、最も警戒すべき人物であったと言えますが、慶応3年5月14日、二条城に登営した四侯に対して、慶喜はその政治手腕をいかんなく発揮しました。
『続再夢紀事』六によると、慶喜が四侯に対して、「長州の事ハ如何すへきや」と尋ねたところ、久光は西郷の建白書どおり、まずは長州処分から先に手を付けるべきだと主張しました。

「兵庫開港も御急務なれと長州御處置ハ最御急務なるへし、就てハ長州の御處置を済まされし上、兵庫開港の事に及ハれ然るへし」(『続再夢紀事』六)

と久光は言ったとありますが、それを受けて慶喜は、長州問題は「御國内の一小件と見做しても見做されるにあらす」と言い、さらに、

「外國の事に至りてハ皇國一般の興廢に關し、殊に實祚の御安危にも係るへき重事なれは、長州の所置よりも兵庫開港の方を先に盡力ある様致したし」

と返し、久光と議論になりました。
慶喜の論法は、開港期限(慶応3年12月7日)の6ヶ月前には開港を公示する必要があるので、そちらを優先したいとのことでしたが、慶喜は既に四カ国公使等に対して兵庫開港を確約していましたから、先にそれを片付けたいと考えていたのでしょう。

結局、5月14日の四侯と慶喜の面談は物別れに終わり、その後、四侯会議は5月17日に土佐藩邸で開催され、さらに19日と21日には、容堂を除いた久光ら三侯が慶喜と面談して協議を続けましたが、両者の話し合いは結局平行線に終わりました。
『続再夢紀事』六によると、19日の協議の席上においても、慶喜と久光は長州処分と兵庫開港の優先順位を巡って議論となり、結局春嶽が二件を同時に行なう折衷案を示しました。
ここに薩摩藩が主張した長州処分先決案は敗れ去ったのです。

以上のように、四侯と慶喜の協議は終始慶喜ペースで進み、さらに四侯の一人である容堂が病と称して会議への出席を拒みだしたことから、最終的に四侯会議は瓦解へと追い込まれました。
元々四侯の内、春嶽は慶喜寄り、容堂も同様、宗城はどっち付かず(やや久光寄り)、といった態度でしたので、久光は孤軍奮闘して自らの主張を通そうとしましたが、慶喜の巧みな話術と政治手腕により、四侯会議は崩壊したのです。今回の『西郷どん』で描かれたような、既に根回しが済んでいて云々、なんていう単純な話では無かったのです。あの描き方は、四侯会議において奮闘した久光に対して、とても失礼なものだと思います。

今回は少し長くなりすぎましたので、後半部分は今回の『西郷どん』のようにかなり端折ってしまいましたが(苦笑)、これまで書いてきた四通の西郷建白書の内容を見れば分かるように、当時の西郷は、まず幕府に反省を促すことを第一義に定義していたことが分かります。
幕府がこれまでの失策・失政を認めて、長州処分を核とする国内問題をまず整理し、人心を落ち着かせて安定に導くことが第一であり、その後、朝廷の意志を遵奉し、兵庫開港などの国外問題に手を付けるというのが筋道だと西郷は考えていました。
しかし、慶喜は、長州処分を先に行うことは幕府の権威を失墜させることに繋がると危惧し、久光の建言を巧みにかわす不誠実な対応を取りました。
結局、5月24日には、慶喜の希望どおり、長州処分と兵庫開港の朝命が下りましたが、それは久光を中心とした薩摩藩が求めていた内容とはかけ離れていました。
そのような幕府の態度を目の当たりにした西郷は、四侯会議を基礎とした公議政体論を捨て、武力を背景とした政権奪取案を考えるに到りました。
つまり、ここにおいて初めて、西郷は幕府を見限るに到ったと言えるのです。

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【2018/09/10 20:08】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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