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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
以前、脚本家の中園ミホさんは、「果たして史実をちゃんと綿密に調べたうえで創作しているのか?」と、疑問を呈したことがありましたが、前回から続く一連の展開を見ていると、益々その思いは強くなってきました。
何度も口酸っぱく申しますが、私は史実にこだわっている訳では決してありません。
ドラマである以上、創作は大いに結構と言うか、当たり前だからです。
先日、島津家32代当主の島津修久氏が、『西郷どん』における島津久光の描き方に苦言を呈されたことがニュースになっていましたが、これは脚本家が史実を知らない、いや理解していないがゆえに、登場人物に対する配慮やリスペクトが低くなったことにより起こったことではないかと私は感じています。

(龍馬と薩摩の対立)
前回のラストで坂本龍馬と西郷が対立する様子が描かれ、そして今回、その龍馬が暗殺されました。
この龍馬暗殺に関して、ドラマ内でいわゆる「薩摩藩黒幕説」は直接的に描かれませんでしたが、龍馬の妻のお龍が西郷に対して、「あんたが殺した!」と、詰め寄るシーンがありました。

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坂本龍馬誕生地(高知市)

また、その前には龍馬と西郷が仲違いするシーンも描かれましたが、龍馬が大政奉還を始めとする平和的な解決を望んでいたが、西郷ら薩摩藩関係者は武力を用いた倒幕にこだわっていたため、そんな龍馬の存在が邪魔となり、最終的に暗殺するに到ったという、この対立構図は、現在では理論的に破たんしていると言えます。

ここで断言しておきますが、龍馬は武力倒幕論者です。
龍馬は平和的に事を収めようと考え、大政奉還を推進した訳では決してありません。
これは龍馬の同志であり、海援隊士でもあった土佐藩士の岡内俊太郎が、はっきりそう書いています。
慶応3(1867)年10月4日付けで、岡内が当時長崎に居た土佐藩士・佐佐木三四郎(のちの高行)に宛てた書簡(以後「岡内書簡」と略す)には、次のようにあります。

「龍馬始め私共國元にある同志の議論は薩長協力兵力を用る議論にて御座候」(『坂本龍馬関係文書』一)

これは慶喜が大政奉還の上奏を朝廷に対して行う10日前に書かれた書簡です。
(9/19追記:『坂本龍馬関係文書』一によると、岡内書簡は明治36~37年頃に佐佐木高行の求めに応じて、岡内が当時の記憶を辿って同日付として書いたものとの編者による脚注が付いています。よって、この記述が正しければ、本書簡の信用性は低くなりますが、書簡の内容を見る限り、龍馬や岡内の行動に関して、大きな齟齬は無いと判断し、今回採用しました)

当時の龍馬は、土佐藩を薩長両藩が計画していた武力を用いた倒幕へと導くべく、長崎でオランダのハットマン商会から買い入れた小銃1300挺のうち1000挺を土佐に持ち込み、その受け入れを土佐藩の重臣たちと水面下で交渉している最中でした。
岡内書簡には、その時の経緯が詳細に記されていますが、「此小銃の一事にて愈御國元に於て之を容るヽ處と相成候はヽ幸と、若し俗論派のため拒まれ之を採らざる事に相成候はヾ實に不安次第」とあり、当初龍馬らは土佐藩が小銃を受け入れてくれるかどうか心配していたとの記述があります。

しかしながら、長崎から寄航した下関において、長州藩士の伊藤俊輔(のちの博文)から、「土佐で引き取ってもらえないようであれば、長州藩で使うので、下関に持ち帰ってはどうか」と言われたことにより、岡内も龍馬も奮起したようです。岡内書簡には、

「我々土藩の者何の面目あって再び長藩人に見へん、此一事最早成否如何によりては、最後の一決を行ふの外無之と才谷倶々談論仕候、是非此事は一死を期して盡す可くと誓ひ、御國元へ著之上の方策を講じ如何の事に成行き、又如何様の儀あるも再び長藩に持帰る事を成さヾるべしと決し申候」(『坂本龍馬関係文書』一)

と、龍馬らは無様に小銃を長州に持ち帰ることは面目が立たないとして、何とかして買い入れた小銃を土佐藩に受け入れさせるべく、決死の覚悟を誓い合ったとあります。
もちろん、その小銃は武力倒幕のために使うものであったことは、改めて言うまでもありません。
つまり、当時の龍馬らは、土佐藩内の武力倒幕支持派に対し、独自に武装支援することで、土佐藩を薩長両藩と共に武装蜂起させようと考えていたのです。

また、岡内書簡よると、龍馬らを乗せた船(龍馬は芸州藩の藩船・震天丸を借用していた)が長崎を出て下関に着港した際、見知らぬ蒸気船が東に向けて出航したため、龍馬が大いに焦って探索したところ、その船は大久保を乗せた薩摩藩船であることが分かったとあります。
慶応3(1867)年9月18日、大久保は直接長州にまで出向き、長州藩主父子に拝謁して、長州藩の要人らと京坂への出兵計画について打ち合わせを行っていますが、その大久保が京坂に帰る様子を龍馬らが偶然見かけたのです。

岡内書簡には、大久保が長州を訪問した事実を知り、「心事不易(心中穏やかではなかった)」と書かれています。
龍馬らがなぜそのように感じたのかについては、岡内書簡内に「御國元藩論未だ双派に別れ一決せず、其時薩長は最早一致」とあることで分かります。
つまり、龍馬らは大久保の長州訪問を目撃したことにより、薩長両藩が既に藩論を統一し、着々と挙兵のための準備を進めていることに焦りを感じたからです。
薩長両藩と比べ、龍馬らの本国である土佐藩は、未だ藩論が二派に分かれていたことから、龍馬らは心中穏やかではなかったのでしょう。
そして、岡内はさらに次のように続けて書いています。

「我本藩因循最早一日も油斷不相成、速ニ土佐に帰り大に此等の事情を陳べ、是非薩長と事を合する外無之」

つまり、龍馬らは最早一刻の猶予もないと考え、いつまでも煮え切らない土佐藩の藩論を統一し、土佐を薩長の挙兵に合流させるため、速やかに土佐に帰国しようと決心したのです。

拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも書きましたが、慶応3(1867)年9月20日付けで、龍馬から長州藩の木戸孝允に宛てた書簡には、木戸から話を聞いた薩長両藩の武力倒幕計画について、

「大芝居の一件、兼而存居候所とや、実におもしろく能相わかり申候間、弥憤発可仕奉存候」(『龍馬の手紙』)

とあり、龍馬自身が武力倒幕計画のために奮起しようとしていた様子が分かります。
そしてまた、この木戸宛て龍馬書簡内にも、前出の長崎で買い入れた小銃のことが出てきます。
龍馬は、「私し一身の存付ニ而、手銃一千廷買求、芸州蒸気船をかり入、本国ニつみ廻さんと今日下の関まで参候」と、木戸に対して小銃を自らの一存で買い入れたことを説明し、それは「急々本国をすくわん事を欲し」たためであったと説明しています。

当時の土佐藩は、薩摩藩から「薩土盟約」を事実上破棄され、また、前土佐藩主・山内容堂の意向により、土佐藩参政の後藤象二郎が武力を用いない大政奉還建白運動を京において展開していましたが、それは遅々として進んでいない状態にありました。
龍馬はそのことを危惧し、土佐藩を救うため、土佐の藩論を武力倒幕に転換させようと考え、大量の小銃を持ち込み、藩内の武力倒幕支持派に武装支援を行おうと考えていたのです。

また、これも拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』に書きましたが、龍馬は土佐藩の藩論が因循の域を出ないのは、武力を用いない建白活動を続けている後藤の存在が害となっているからだと考え、後藤を京から土佐に帰国させた方が良いのではないかと考えていたようです。
そのことは、同木戸宛て龍馬書簡内に、「後藤庄次郎を国にかへすか、又は長崎へ出すかに可仕と存申候」とあることで分かります。
以上のように、龍馬は土佐藩が薩長と共に協働して事を進められるよう、土佐藩を説得しに帰国しようと考えたのです。

前出の岡内書簡によると、土佐に帰国した龍馬は、土佐藩の渡辺弥久馬本山只一郎ら要人に対して、現在の時勢や政局を滔々と述べ、薩長に協力するよう求めました。岡内書簡には、

「種々坂本より申上げ、大に時勢の大體を御看破に相成り、實に薩長と同心協力盡さずんばある可からずと云はれ」

とあり、龍馬が必死に薩長に協力するよう、土佐藩の要人たちを説いた様子がうかがえます。
しかしながら、前述のとおり、土佐には容堂という、心情的に幕府を擁護しようと考える大きな存在があり、容堂は武力では無く、建白によって朝廷への政権返上を進めたいと考えていました。
岡内書簡にも、「御隠居様思召には兵を用る事は御好不被為遊事より御建言を為すの策を御採り被為遊思召にて被為在」と、容堂の意向が触れられており、土佐藩はそう易々と藩論を変えることが出来ない状況にあったと言えます。

しかし、龍馬らはそのことに大きな危機感を抱いていました。岡内書簡には、

「後藤象二郎殿も兵を用る事の議論は無きよし、然るに天下の大勢薩長の協力愈兵を用る事に相決し居候事に候はヾ、土佐と薩長とは藩論一致さヾるの勢とも可相成歟、薩長兵力に據る時土佐傍観も如何あらん、實に重大の關係を生じ可申歟」

とあり、もし薩長が挙兵し、それを土佐が傍観するような事態になれば、薩長両藩と土佐藩との関係に重大な問題が生じることを龍馬らが危惧していたことが分かります。

このように、容堂の存在によって、土佐藩の藩論が煮え切らない状態にあることを苦慮していた渡辺弥久馬ら土佐藩要人は、龍馬らに対して、早々に京に出て、後藤を説得し、薩長両藩に協力させるよう求めました。
岡内書簡には、「兎に角龍馬私ともは早々京師に出て盡力するを偏に御希望の次第にて、畢竟後藤象二郎殿に説き、薩長と反せぬ様相運ぶ事を主と致し候事情に御坐候」と、その事情が記されています。

この渡辺らの依頼を受けて、慶応3年10月5日、龍馬は土佐藩船・空蝉に乗り、京へと向かいました。
つまり、龍馬が京に向かった目的とは、一般に言われるように、武力を用いない平和的な大政奉還を推進するためでは無く、実はその逆で、土佐藩を薩長両藩と協働させ、武力倒幕へと導くためであったということです。
つまり、龍馬の目的とは、後藤に平和的な建白運動を放棄させ、薩長の挙兵に土佐を加えさせるためであったのです。

事実、10月9日に京に入った龍馬は、その通りの行動に出ています。
翌10日頃、龍馬は後藤に宛てて書簡を送っていますが、その中には、

「けして破談とはならざるうち御国より兵をめし、御自身は早ゝ御引取、老侯様に御報じ可然奉存候」(『龍馬の手紙』)

と、武力を用いない平和的な大政奉還の建白運動が失敗に終わらない内に、土佐から兵を呼び寄せ、後藤自身は早々に帰国して、容堂にその旨報告した方が良いと進言しています。

以上のような経緯を見れば明らかですが、龍馬は薩長両藩と対立していたどころか、薩長側に居た人物であり、そこには一般に言われる「平和主義者」の一面は全く見られません。
むしろ龍馬は、薩長の武力倒幕策を強く支持しており、その薩長に土佐藩を加えさせたいと考える意図が強くあったのです。

ただ、そんな龍馬が最終的に後藤の建白による大政奉還運動を支持したのは、薩長両藩による武力挙兵計画が薩摩藩兵の出兵が遅れたことにより、一時的に頓挫したからです。
薩長が武力を用いることが出来ない状況になった時、初めて龍馬は翻意し、後藤の働きに賭けたのです。
そのことは拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも書きましたが、結局、龍馬が最終的に後藤を支持したのは、やはり龍馬が土佐人であったからです。
龍馬は後藤の奮闘ぶりを間近に見たことにより、土佐に小銃を持ち込んで武装支援したのと同様に、土佐を救わんことを欲し、後藤を激励、応援したと言えましょう。
また、龍馬は「幕府対薩長」という政治の対立軸に対し、薩長とは異なった別の政治路線を提示することは、土佐藩の存在価値を高めるのではないかと考え、西郷ら薩長関係者に叱責されることを恐れず、最終的に後藤に協力したのではないかと私は考えています。

(検証:西郷と短刀の逸話)
NHKの『西郷どん』の公式Webサイトには、次回予告として、主役の鈴木亮平さんの「西郷どんの目線」というコメントが毎回更新されていますが、第35回の見どころについて、

そして、もうひとつの見どころは、「短刀一本あれば片がつく」という西郷さんの名言でも知られる、小御所会議のシーンです。第32回「薩長同盟」もそうでしたが、史実として伝わる有名なエピソードをどう印象的に表現できるか、ここでは、狡猾(こうかつ)な手段を使えるようになった吉之助から「おそるべき覚悟」を感じていただけることを、僕としては大事にしました。

とあり、今回のドラマ内で描かれた、小御所会議における「西郷と短刀の逸話」を史実として扱っていますが、この逸話について、史実と判断して良いかどうかはとても微妙です。
そもそもこの西郷が短刀云々と言って、岩倉を励ましたという逸話の典拠を見てみると、明治44年に発刊された、長州藩主・毛利敬親の事蹟を記した『忠正公勤王事蹟』には、著者の中原邦平が小御所会議に出席していた薩摩藩家老の岩下佐次右衛門(のちの方平)から聞いた話として、次のように書かれています。

「此の方平君に親しく聞いた話でございますが、どうも越前だの土佐だの、其他の佐幕論が烈しいので、さすがの岩倉公と大久保の二人も困って居るから、是は一つ西郷の意見を聞くが宜いと云ふので、岩下は急使を派して、西郷吉之助を呼びにやりました、西郷は會議の席へ出る積りではないから、袴も穿かず、著流しに兩刀の次第で、どうも反對論が多くて、岩倉公も一蔵も困って居る、是はどう云ふ風にしたら、治まりが付くだらうか、お前の意見を聞かうと思って、呼出したと言った所が、西郷は平気の平左で、何の方法も手段もあるものか、短刀が一本あれば、始末が付くぢゃないか、其の事を岩倉公へも申上げ、一蔵へもさう傳へて呉れと云って、スーッと帰って終った」

このように、西郷から「短刀が一本あれば、始末が付く」と言われた岩下は、それを岩倉具視に伝えると、岩倉は短刀を懐に入れ、「若し次席に於て後藤等が前論を固執するなれば、止むを得ず御前の席で恐入るけれども、霹靂の手段で、一呼吸の間に事を決して終ふ」と、覚悟を決めたと同書にあります。
また、この岩倉の決意は、芸州藩主の浅野長勲に伝えられ、それに驚いた浅野は、同藩家老の辻将曹を呼んで相談しました。辻はその岩倉の決心を土佐藩士の後藤象二郎に告げたところ、その話が後藤から前土佐藩主・山内容堂前越前藩主・松平春嶽へと伝わり、彼らはその後会議で沈黙したのです。

一方岩倉の決心を聞いた浅野長勲の口述で編纂された『王政復古の事情』には、同様に次のような話が記載されています。

「西郷吉之助は軍隊指揮の任にありて、議席に列しなかったが、此會議の紛状を聞き更に驚く気色もなく、止むを得ざるときは之れあるのみと、懐中より短刀を示しました、此時岩倉三位は余を麾いて、一室に誘ひ申さるヽには、薩、土の間議論大に衝突し、是より遂に維新の大業も水泡に帰せんことを憂惧せられ、余に後藤象二郎を説諭せよとの依頼を受け、先づ試に辻将曹をして後藤象二郎を説かしむる」

このように、確かに両書には小御所会議における西郷と短刀の逸話の記載がありますが、この逸話には少し懸念すべき点があります。

まず、『忠正公勤王事蹟』の情報元である岩下ですが、明治25年11月2日、史談会の席上で小御所会議について語り遺していますが、そこには西郷が岩倉に短刀云々と言ったという話が全く出てきません(史談会速記録第五輯「慶應三年丁卯十月小御所會議の事實附十一節」『史談会速記録』(原書房)合本一所収)。
同速記録の中から、この短刀に関連する話を探すと次のようなやり取りがあります。
『忠正公勤王事蹟』の著者である中原邦平が岩下に対して、

「小御所の寄合の時、後藤さんは論が合わぬで、岩倉さんと大久保さんに別に話をせねば、刺違へると云はれたとやら聞きまするが」

と問いかけたところ、岩下は、

「夫れ丈けの事は無いでせふ」

とだけ答え、後は公卿の中山忠能が「日本に諸侯はない、諸藩と云ふが宜からふ」と発言したなどという、別の話にすり替わってしまっています。
つまり、岩下は史談会の席上で中原の問いかけに対して、西郷が短刀云々と言って岩倉を鼓舞したという話を全くしていないのです。

また、西郷に短刀云々と言われた岩倉側から見てみると、岩倉の伝記である『岩倉公実記』には、

「具視退キ休憩室ニ入リ獨リ心語ス、豊信猶ホ固ク前議ヲ執リ動カサレハ吾レ霹靂ノ手ヲ以テ事ヲ一呼吸ノ間ニ決センノミ」

とあり、西郷の示唆に対する言及は一切無く、岩倉自身が「霹靂ノ手」、すなわち豊信こと容堂に対して、短刀を用いた刺殺を決意したことになっています。

慶応3(1867)年12月9日の夜に開催された小御所会議については、今回の『西郷どん』でも描かれたように、西郷は会議には出席せず、御所の警固にあたり、一方大久保は会議に出席しました。
大久保と同じく小御所会議に出席していた越前藩の重臣・中根雪江が書いた「丁卯日記」(『史籍雑纂』四所収)によると、薩摩藩の家臣では大久保の他に、前述のとおり家老の岩下が会議に出席しており、その席上で山内容堂と公卿の岩倉具視、薩摩藩主・島津忠義との間で議論となり、そして、家臣の大久保や後藤を巻き込んでの激論となったわけですが、問題は小御所会議に出席していなかった西郷が、会議の最中に岩下から呼び出しを受けた事実があったのかどうかについてです。

この点について、当日の大久保の日記を見てみると、西郷のことについては一切触れられていません。12月9日の条には、

「今夜五時於 小御所御評議、越公容堂公大論公卿を挫き傍若無人也、岩倉公堂々論破不堪感状、君公云々御議論、容堂公云々御異論、不止得予席を進ミ云々及豪論候、後藤中を取而論、越土之論直様慶喜を被召候と之趣ニ而全扶幕之論也」(『大久保利通日記』一)

とあり、容堂や春嶽が慶喜を会議に出席させるよう求める発言をし、それに対して岩倉や忠義が反論した様子が分かりますが、議論が紛糾したために、西郷が呼び出された云々は一切出てきません。
また、大久保の日記には続いて、

「一應 御勘考 御退坐、其内後藤より予ニ云々議論有之候得共、兼而決定之國論を以敢不動、越尾終ニ御受ニ而二條城ニ御行向御盡力御決相成候」

との記述があります。
前後の文脈から解釈すると、大久保曰く「退坐」とは、休憩のための中座だと思われます。
退坐の前に「一應 御勘考」との文字があるということは、まだ会議の結論が出ていなかったことを意味し、また、後藤との議論を経て「越尾終ニ御受ニ而」とあることからも、退坐とは中座だと解釈するのが適切です。
つまり、諸書にある通り、小御所会議は議論が紛糾したため一旦休憩に入ったことは間違いなく、またその際に、大久保が後藤の呼びかけにより議論したことが大久保の日記から分かります。
そして通説では、この休憩中に西郷が呼び出され、岩倉に対して短刀云々と言ったと繋がるわけですが、しかしながら、前出の岩下の史談会での談話を見ると、聞き手である元薩摩藩士の寺師宗徳が、

「何時か伺ひましたことがござりまするが、御會議でござりますか、大久保が西郷を呼ひに行って後藤と談したところ、後藤の論が強くて、是れは己れ一人では勝てぬから、加勢に來よと云ひしことがありしとやら覺へます」

と岩下に対して質問したところ、岩下は、

「夫れは後である」

と返し、続いて、

「其後とで畢竟反對論で、大久保は余程長いことを申した、夫れで御評議が済んだ、其れから後とて控所に居る時分に、大久保が来て、西郷に來て呉れ、余程激しいからと云って來た」

と語り、西郷を呼び出したのは小御所会議の終了後だとし、その際に後藤が議論をふっかけてきたので、大久保が西郷に助力を求め、その後、後藤を交えて西郷、大久保、岩下の四人で議論したという風に答えています。

ただ、この岩下の発言は、小御所会議から25年も経った後のものであり、やはり記憶違いもあると割り引いて考えた方が良いかもしれません。
例えば、岩下はこの時とは別の談話において、前出の寺師宗徳に対して、

「特ニ大久保ハ驚喜ニ耐ヘス御前ニ進ミ出テ公ノ御説ヲ布衍シテ長々シク奏上シタリ、中山忠能、岩倉具視ノ諸公皆同意セラレシニヨリ異議ナク議決セリ、一同御前ヲ退キシニ別室ニ於テ再ヒ大久保ト後藤ト論議アリ、大久保モ殆ント語究セシト見ヘテ予等ノ据間ヘ來リ、皆々加勢ニ來レヨト申シタリ、西郷、小松、予、三人連レ立チ行ケリ」(史談会速記録第百八十一輯附録「島津家事蹟訪問録」『史談会速記録』(原書房)合本二七所収)

と、小御所会議について語っており、前出の史談会での談話と同じく、会議の終了後に大久保と後藤の議論が始まったとありますが、当時京には居ないはずの小松を連れて大久保に加勢したと言っていることからも、岩下の回顧録は少し信用性に乏しい部分もあると考えられます。

前述のとおり、岩下は史談会の席上で短刀の話を全くしておらず、また、『大西郷全集』三の「西郷隆盛伝」には『忠正公勤王事蹟』と同様の話が出てきますが、それより古い時代に書かれた勝田孫弥『西郷隆盛伝』には、『岩倉公実記』と同様に、西郷による示唆はなく、岩倉が自ら短刀を懐に入れて覚悟を決めたとしかありません。
ただ、岩下の一連の証言を無下には出来ませんので、全ての整合性を保たせるのであれば、大久保が後藤と議論したのは、会議の休憩中と終了後の二回あり、西郷が岩下に呼ばれて参加したのは、会議終了後の議論であったということではないでしょうか。
そのように解釈すると、会議の休憩中に西郷が呼び出され、岩倉に対して短刀云々と言ったことにより、小御所会議が収束へと向かったという逸話は、現実には無かったことになります。

以上のように、岩下が『忠正公勤王事蹟』の著者の中原邦平に語った「短刀が一本あれば、始末が付くぢゃないか」という西郷の逸話は、そのような事実が本当にあったのかどうか、懐疑的にならざるを得ず、その信用性に関しては、真っ黒とは言えないものの、灰色に近いものだと言えるかもしれません。

(付記)
薩摩藩士に折田要蔵という、西郷と取っ組み合いの喧嘩をしたとの逸話を持つ人物がいますが、小御所会議が開催されていた時、折田は御所の警固にあたっていました。
その折田の当日の日記に、次のような記述があります。

「一、途中ニテ内田仲之助ヘ行逢ヒ、朝中之有様ヲ伺ニ、西郷モ先刻退朝、唯今議論紛紜ニテ六ヶ敷成立、太守様余程御議論最中、早ク西郷ヲ不出シテ難叶ト言捨テ立去リタリ、嗚呼如何成事ノ出来ラント、手ヲ握リテ立帰リタリ、終夜不眠」(「折田要蔵日記抄」『忠義公史料』四所収)

この記述の中にある内田仲之助とは、薩摩藩士・内田政風のことですが、この日記の前半部分は、「途中で内田に会い、朝廷内の様子を伺ったところ、西郷も小御所会議開催のために先刻退朝し、ただ今議論が紛糾していて難しい状況となっており、藩主・忠義公もかなり頑張って議論しておられる最中」ということだと思いますが、それに続く部分の意味が少し取りにくいと感じています。

「早ク西郷ヲ不出シテ難叶ト言捨テ立去リタリ」

という部分ですが、内田が「早く西郷を出さない(呼び出さない)と(目的が)叶わない」と言い捨てて立ち去ったのだと解釈すれば、小御所会議での議論が紛糾していたため、薩摩藩関係者の間には、当時警固にあたっていた西郷を再び参内させて、藩主・忠義や大久保に加勢させようとする声が起きていたのかもしれません。
また、折田が「ああ何とかならないものかと手を握りしめて立ち帰った。終夜眠れなかった」と書いていることからも、小御所会議での議論は、短刀一本でカタが付くような、そんな簡単な話ではなかったようにも思います。



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【2018/09/16 22:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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ukoji
先日の大河は苦笑い


スコたま
膨大な資料の読み込みぶり、感服致します。

雪舞い、しばれる夜の京都。
当日は物騒な薩摩兵児どもに取り囲まれた軟禁状態にある訳で。何時になくうろたえた側近に「殿・・さ、西郷がこんなこと言っておるそうです・・」とコソッと命の危険を耳打ちされれば、容堂にしてみれば生涯初めてリアルに「死」の恐怖を思い知らされ小便くらい漏らしたことでしょう。

西郷が言ったか岩倉が吹いたかはたまた事前に打ち合わせていたか判りませんが議論妨害甚だしく吠える“徳川の犬”には当然切りたくなる、否、切るべきカードでありましょう。

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先日の大河は苦笑い
2018/09/17(Mon) 22:55 | URL  | ukoji #4tZXgICc[ 編集]
膨大な資料の読み込みぶり、感服致します。

雪舞い、しばれる夜の京都。
当日は物騒な薩摩兵児どもに取り囲まれた軟禁状態にある訳で。何時になくうろたえた側近に「殿・・さ、西郷がこんなこと言っておるそうです・・」とコソッと命の危険を耳打ちされれば、容堂にしてみれば生涯初めてリアルに「死」の恐怖を思い知らされ小便くらい漏らしたことでしょう。

西郷が言ったか岩倉が吹いたかはたまた事前に打ち合わせていたか判りませんが議論妨害甚だしく吠える“徳川の犬”には当然切りたくなる、否、切るべきカードでありましょう。
2018/11/20(Tue) 04:59 | URL  | スコたま #-[ 編集]
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