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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
ドラマはいよいよ幕末編のクライマックスへと突入してきました。
前々回あたりから目まぐるしく話が展開していますが、ただ、とても残念であったことは、前回の放送で江戸攪乱工作を西郷の指示によるものだと描いたことです。

「鳥羽・伏見の戦い」の契機ともなった江戸攪乱工作は、長い間、西郷の謀略であると言われ続け、それが長らく通説化されてきました。
しかし、拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』でも書いたように、その元になった京・大坂・江戸における三都同時挙兵は、慶喜が政権を返上(大政奉還)したことにより、その計画は一旦白紙に戻さざるを得なくなっており、西郷が江戸に居た浪士たちを使って、火つけや強盗を指示し、幕府側を挑発しようとした事実は一切ありません。
それどころか、西郷の意を受けた薩摩藩士・吉井幸輔は、江戸に居た浪士たちが京の政情をよく理解せずに勝手に暴発し、事を壊すことがないよう、浪士たちを統括していた伊牟田尚平や益満休之助に対して、自重を求める書簡を何度も出しています。

このように、吉井が当時江戸に居た浪士たちに対し、軽挙妄動を慎むよう、何度も書簡を送っている事実があるにもかかわらず、前回の放送では、江戸攪乱工作を旧説のまま西郷の謀略(指示)として描いたのですから、『西郷どん』は、一体西郷のどんな新しい姿を見せようとしているのか、はっきり言ってよく分かりません。
ドラマの残り回数が少なくなっているので、その江戸攪乱の真相を深く描くことが出来なくなったことは理解しますが、西郷の虚像部分をそのままの形で描き、虚説を垂れ流すのであれば、もっと他にカット出来る不要なシーンは、たくさんあったはずです。
青年時代の西郷を描き、彼の持っている人間愛をドラマの中で表現したかったのは理解できますが、なぜ貴重な回数を使ってまで、ありもしないフィクションのエピソードを満載に描いておきながら(例えば、ジョン万次郎との交流など)、一番肝心な西郷評価に関わる根幹部分の西郷に被せられた虚像を否定しようとしないのか、私には全く理解できません。
言葉は少し厳しいですが、『西郷どん』は、一体何のために、何の目的で作られたドラマなのでしょうか?

(鳥羽・伏見の戦い:西郷家の戦い)
今回の『西郷どん』で描かれた鳥羽・伏見の戦いの中で、西郷の実弟の信吾(のちの従道)が、西郷の進撃論に待ったをかけるシーンが描かれていましたが、このような事実はありません。
信吾を戦嫌いの優しい性格にして描く意図が、私にはイマイチよく分かりません。寺田屋事件の時もそうでしたが、信吾は有馬新七等の斬り合いに怖じ気づくような描き方をされていました。

ただ、信吾が鳥羽・伏見の戦いにおいて重傷を負ったことは事実です。
信吾の負傷については、鳥羽・伏見の戦い後、慶応4(1868)年1月10日付けで、西郷が鹿児島の西郷宅に寄宿していた川口雪篷に対して、

「信吾には余程敵地へ進み入り、耳の下より首へ懸け、射抜けられ候得共、格別の事にもこれなく、もふは宜しく、又々戦いあらば出ずべしと進み居り申し候」(『西郷隆盛全集』二)

と書き送っていることで、その時の状況が分かります。
信吾は敵陣近くまで深く入り込んだため、敵兵に狙撃され、耳の下から首にかけて貫通銃創を負いましたが、そんな重傷を負いながらも、信吾は西郷に対して、「また戦があれば進んで出たい」と言っていたようです。

しかしながら、そんな勇猛果敢に敵陣に入って負傷した信吾が、今回の放送では、西郷に進軍を止めてはどうかと意見している最中、背後から銃で撃たれていました。
もし本当に敵に対して背を向けた状態で撃たれていたとしたら、信吾は西郷から「薩摩武士として、あるまじき振る舞い」として、こっぴどく叱られたことでしょう。
実際、前出の川口宛て西郷書簡には、

「両人は疵を蒙らず候らわでは追い出すべしと申し置き候」

とあり、西郷が信吾に対して、戦傷を負うような勇敢な働きをしなければ「勘当」すると言っていたことがうかがえます。
ちなみに、両人とあるのは、信吾と西郷の従兄弟の大山弥助(のちの巌)のことです。
大山は『西郷どん』には登場していませんが、彼も鳥羽・伏見の戦いにおいて、耳を撃ち抜かれる銃創を負いながらも、それにひるまず最後まで戦い続けましたので、西郷は二人の働きに大変満足したのでしょう。同川口宛て書簡の中で、

「両人共十分の働きいたし、疵を蒙り誠に悦敷、もふは勘当致さず、秘蔵致すべきと相考え申し候」

と書いています。

「秘蔵致すべし(二人を可愛がりたいと思います)」

という部分に、当時の西郷が二人の活躍に対して、ご満悦の様子であったことがうかがえます。

また、同川口宛て書簡には、その他の西郷家の男たちの状況が記されています。
次弟の吉二郎については、「病気にて引き入れ居り、気の毒に御座候」とあり、病気で参戦することは出来ませんでしたが、末弟の小兵衛については、「いまだ疵は蒙らず候得共、六日八幡の戦いにては余程相働き申し候」とあり、戦功を挙げたと西郷は書いています。

このように西郷家関係者の男たちが吉二郎を除いて活躍したにもかかわらず、西郷自身は二度しか戦陣に立てなかったことから、西郷は川口宛て書簡の中で、

「定めて信吾抔よりかんどうを申し付け申すべきと、残念此の事に御座候」

と書いています。
つまり、信吾や弥助から逆に勘当を言い渡されるのではないかと、冗談混じりで報告しています。
川口宛ての書簡は、いわゆる妻のイトを始めとする家族に宛てたものであると言えますので、西郷は鹿児島に遺された家族に対し、家族全員の無事を伝えたかったのでしょう。

このように、鳥羽伏見の戦い後に書かれた川口宛て西郷書簡によると、西郷と信吾に意見の食い違いがあった様子は一切見られず、西郷家の男たちは皆勇敢に戦を乗り切ったわけですが、敢えて西郷と信吾の対立を描いたということは、後の「明治六年の政変(いわゆる征韓論政変)」の伏線と言えるかもしれません。
信吾は同政変の際、西郷とは違って東京に残る選択をしましたので、その辺りのことを意識した演出なのかもしれません。

(薩摩藩の武力行使)
話を「鳥羽・伏見の戦い」の前まで戻しますが、西郷と慶喜が決裂して以来、何かと西郷は慶喜を目の敵にし、幕府を武力で倒そうとしている様子がドラマ内で描かれています。
前回では、西郷の弟・信吾の目線で、「兄さあは鬼に変わった」と描かれていましたが、「西郷がなぜ鬼に変化したのか?」、はたまた「何をもってそのように言えるのか?」が、私には一向によく分かりませんでした。
誰からも愛される優しい性格であった西郷が、なぜ急に豹変したのかについて、その原因や理由等が深く描かれないまま、突然鬼のように荒々しくなったため、それはいかにも唐突な感じがし、首をかしげられた視聴者の方も多かったのでは無いかと思います。

最初に書きますが、当時の西郷は、何が何でも武力をもって幕府を倒し、慶喜を葬り去ろうと考えていたわけでは決してありません。
西郷という人物は、どんな場面においても「大義名分」を重んじる人であり、大義が立つのであれば、大きく一歩踏み込んで戦うことを厭いはしませんが、相手に対して不条理な戦いを仕掛け、私怨をもって事を進めるようなことは一切無かった人です。
そんな西郷の態度や考え方は、慶応3(1867)年12月8日、王政復古政変前日に岩倉具視に対して差し出された建白書内に色濃く顕れています。
同建白書には、

「今般御英断を以て王政復古の御基礎召し立てられたき御発令に付いては、必ず一混乱を生じ候やも図り奉り難く候得共、二百有余年の太平の旧習に汚染仕り候人心に御座候得ば、戦いを決し候て死中活を得るの御着眼最も急務と存じ奉り候。然しながら戦いは好みにて成すべからざる事は、大条理において動かすべからざる者に御座あるべく候」(『西郷隆盛全集』二)

とあり、二百有余年続いた太平の旧習に馴染んでいる人心を一新させるには、戦うことを決して、死中に活を求めることが急務としながらも、戦いは好んでするべきものではなく、筋が立たない、不条理な戦いはするべきではないとはっきり論じています。
この建白書は、岩下と大久保との連名となっていますが、その内容と文章の調子、表現を見る限り、西郷が中心となって書かれたものであると考えられます。

また、同建白書内で西郷は、

「徳川家御処置振りの一重事、大略の御内定伺い奉り候処、尾・越をして直ちに反正謝罪の道を立たせ候様、御諭を以て周旋命ぜられ候儀、実に至当寛大の御趣意感服奉り候、(中略)、若し御趣意の通り、真の反正を以て実行挙がり、謝罪の道相立ち候上は、御顧慮なく御採用相成るべき事は勿論に御座候」

とも書いており、慶喜自身が心から反省の態度を示し、謝罪の道が立つようであれば、何の懸念もなく慶喜を新政府に採用すべきであると論じています。
つまり、当時の西郷は、慶喜ひいては徳川家を武力によって一気に叩き潰そうなどとは一切考えていなかったのです。

また、この建白書内には、「全体皇国今日の危に至候事、大罪の幕に帰するは論を俟たずして明なる次第にて」との言葉が出てきます。
これは「現状の政治の混乱は、幕府に原因がある」ということですが、前々回のブログでも書いたとおり、西郷や大久保らが、まず幕府がこれまでの失政を心から反省し、真に謝罪の態度を見せることが何よりも先決であり、最も重要であるとの趣旨で、四侯会議を運営しようとしていたことにも繋がります。
つまり、当時の西郷や大久保は、王政復古政変を断行するにあたり、慶喜が真に反省の態度を示し、徳川家が薩摩と同様に諸侯の列に下り、朝廷を支えるという決断をするのであれば、「討幕」、すなわち武力をもって徳川家を追討しようとまでは考えていなかったのです。

しかしながら、小御所会議での評決を受け、慶喜が大坂城に退去した後、慶応3(1867)年12月25日に生じた「江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件」の一報が幕府側にもたらされたことにより、城中の会津、桑名藩兵を中心とした幕府軍は沸騰し、今にも京に攻め入ろうとする態度を見せました。
当時の西郷や大久保の警戒すべき相手とは、慶喜と言うよりも、その背後に控える会津と桑名藩勢力にあったと言えますので、この時になり、初めて薩摩藩側は、幕府に対して戦いに応じる決意と覚悟を持ったと言えます。

osakajyou.jpg
大阪城(大阪市)

そのことは、慶応4(1868)年1月2日付けで、大久保が西郷に宛てた書簡に色濃く顕れています。
同書簡の中で大久保は、「今形慶喜上京相成候ては實以難取返次第ニ立至候ハ必定候付、是非會桑帰國取計上京と申今日之御達振ならては難相済奉存候」(『大久保利通文書』二)と書き、慶喜を上京させる前に会津と桑名藩兵を先に帰国させるべきだと主張していますが、もしそれが履行されず、慶喜が会桑の兵を引き連れて上京してきた場合は、

「戦ハ窮て出來不申、今日ニ相成候てハ戦ニ不及候得ハ、皇國之事ハ夫限水泡ト相成可申」

と断じています。
つまり、「そうなれば苦しい戦いとはなるが、今日に到っては、戦わなければ皇国のことはそれ限り、これまでの努力は全て水泡に帰することになるだろう」として、大久保は会津・桑名藩の動向と慶喜の態度如何によっては、決戦に及ぶしかないとの覚悟を西郷に対して示したのです。

また、そんな大久保の決意は、その翌日の彼の日記内にも表れています。1月3日の条には、

「昨日來之次第熟慮候處、關東變事一條も有之、必ス徳川慶喜趣意有之上京無相違、且土初之形體甚不審、今日ニ決セスンハ大事差迫は案中と存、戦ニ決する帋面相認」(『大久保利通日記』一)

とあり、江戸での薩摩藩邸焼き討ちの一件もあり、必ず慶喜は兵を率いて上京してくるに相違なく、また、土佐藩の動きも甚だ不審であるため、今に到っては戦うしかないと決心し、その旨を書面に認めたと記しています。
その書面とは同日付けで岩倉に宛てたもので、そこには、

「勤王無二ノ藩決然干戈ヲ期シ戮力合體非常ノ盡力ニ及ハサレハ不能ト被存候」(『大久保利通文書』二)

とあり、大久保は岩倉に対して、強い決戦の決意を述べています。

また、大久保は前出の1月3日の日記の中で、「昨日來坂兵會桑等大兵戎服ニて大砲小銃押立追々着伏、押て入京候ハヽ不得止防戦候段届相達候由承」と書いていますが、これは同日付けで送られてきた西郷書簡を受けてのものです。
西郷は大久保に対し、会津、松山、鳥羽藩の兵隊が銃装で伏見に着いたことを知らせ、

「朝廷よりの御沙汰在らせられ候迄は相控え候様取り押さうべく候え共、押して罷り登り候わば、防戦に及ぶべくとの趣申し遣わし候に付き早々出殿仕り、様子相待ち居る事に御座候」(『西郷隆盛全集』二)

と書いていますが、このように西郷・大久保ともに「防戦」という言葉を使用していることから分かるように、薩長と幕府軍が激突した「鳥羽・伏見の戦い」とは、薩摩にとって一種の「防衛戦」であったことが分かります。

この点については、拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも書きましたが、当時の在京兵力を比べても、薩長側が約四千程度であったのに対して、幕府はその三倍以上の約一万五千と圧倒的に差があり、薩長側が幕府と武力で衝突した場合、勝てる見込みはほぼ無かったと言えます。
そのことを見越してか、西郷は幕府と開戦に及んだ場合、長期戦を意識して、天皇を山陰方面に逃がすことを想定していました。それは西郷が書いたとされる覚書(「戦闘開始の場合御遷幸に関する協議書」『西郷隆盛全集』二所収)によっても明らかです。

以上のような点から考えると、一般に言われているように、当時の薩長が幕府との開戦のきっかけを求めていたというのは虚説以外の何物でもありません。
それは「鳥羽・伏見の戦い」が薩長側の圧勝に終わったという結果論から導き出されたものに過ぎず、実際、薩摩藩にとっての武力行使とは、幕府側から仕掛けられたことに対処するために発動した最終手段であったということです。
つまり、薩摩藩は幕府側に受けて立ったということです。
そして、前述のとおり、もちろんそこに勝算はありませんでした。
薩長ともに長期戦となることを覚悟した戦いでしたが、西郷や大久保の予想に反し、幕府軍は慶喜の大坂退去をきっかけに、数日間の戦いで自滅したと言えます。

以上のような点を理解せず、誤った解釈をとってしまうと、薩長両藩が開戦のきっかけを求めて幕府側を挑発しようとし、いわゆる江戸攪乱工作を西郷が仕掛けたなどという安易な陰謀論に到ってしまうと言えましょう。
実際はそんな安易な話ではなく、薩摩藩の武力行使とは、究極の最終手段であったと言えるのです。



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【2018/09/24 18:30】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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ukoji
西郷家で重要な役割の吉次郎を無視して
信吾に焦点を当てていたのは
西郷どんがイケメンミュージカルだからでしょうか

最近、高橋英樹氏が西郷役の40年前のTV映画、
【命もいらず名もいらず西郷隆盛伝】を見ることが
できました。
これはなかなか良かったです

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西郷家で重要な役割の吉次郎を無視して
信吾に焦点を当てていたのは
西郷どんがイケメンミュージカルだからでしょうか

最近、高橋英樹氏が西郷役の40年前のTV映画、
【命もいらず名もいらず西郷隆盛伝】を見ることが
できました。
これはなかなか良かったです
2018/09/24(Mon) 22:13 | URL  | ukoji #4tZXgICc[ 編集]
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