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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます

今回で幕末編は終了し、次回からは明治編へと入るようですが、幕末編の総括をここで少ししておきたいと思います。
やはり幕末編で際立っていたのは奄美大島編でした。
奄美大島の歴史に関しては、これまでなかなか触れられることが少なく、西郷を描いた歴史ドラマにおいても、軽く流される傾向がありましたが、拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』でも書いたとおり、西郷にとっての南島生活は、彼の人生を左右する、とても大切なものであったと言えますので、そこに重点を置いた描き方は、大変素晴らしかったです。
また、本ブログでも「砂糖地獄」と題して書きましたが、奄美大島に暮らす人々が強いられた苦しい生活にスポットが当たったのも、とても良かったのではないでしょうか。

ただ、その反面、少年から青年時代の西郷を描くことに多くの回数を費やしてしまったことから、西郷の本領とも言える政治家としての一面が、ほとんど描かれなかったのはとても残念なことでした。
特に、慶応3(1867)年当時の西郷の行動や考え方が、非常に雑に描かれてしまいましたので、「なぜ西郷が明治維新の立役者と言われているのか?」が、視聴者にとって非常に分かりにくかったように思います。
また、次回から始まる明治編は、西郷の行動や考え方を理解・解釈することが、より難しくなる時期ですので、それを上手く描くことが出来るのか正直心配です。

(西郷と大久保の徳川処分案)
「鳥羽・伏見の戦い」で薩長側が勝利し、幕府は事実上瓦解することになりますが、大坂から江戸に逃げ帰った前将軍・徳川慶喜の処分を巡り、西郷はあくまでも慶喜の首を取ろうとする厳罰論を主張したと一般に言われています。
『西郷どん』でも同じような形でその姿が描かれていますが、その根拠は、慶応4(1868)年2月2日付けで、西郷が大久保に宛てた書簡の中に次のような文言があるからです。

「只今別紙相達し申し候。慶喜退隠の嘆願、甚だ以て不届き千万、是非切腹迄には参り申さず候わでは相済まず、必ず越土杯よりも寛論起り候わんか。然れば静寛院と申しても、矢張り賊の一味と成りて、退隠位にて相済み候事と思召され候わば、致し方なく候に付き、斷然追討在らせられたき事と存じ奉り候」(『西郷隆盛全集』二)

このように、西郷は確かに「慶喜を切腹にしなければ済まない」との過激な言葉を使用し、烈火の如く怒っていますが、西郷がなぜそのような「慶喜厳罰論」を主張するに至ったのかをまず考える必要があると思います。

それを解くカギは、西郷曰く「別紙」です。

大久保宛て西郷書簡内の最初に出てくる「別紙」とは、前越前藩主・松平春嶽を始めとする、尾張藩、芸州藩、肥後藩、土佐藩といった、当時慶喜に対して同情心を抱いていた諸藩の関係者に宛てた慶喜の書簡のことを指しています。
『徳川慶喜公伝』七によると、同書簡は慶応4(1868)年1月21日に、若年寄・平山敬忠の代筆により書かれたものであり、また、越前藩重臣・中根雪江の「戊辰日記」(『史籍雑纂』四』所収)によれば、同書簡はその一週間後の1月28日に京に着いたことが分かりますが、西郷はその書簡の写しを手に入れて読んだことで、怒り心頭に発したものと思われます。
つまり、西郷が「慶喜の切腹」まで口に出して怒った原因とは、この平山が代筆した慶喜書簡にあったと言えるのです。
(付記:「西郷隆盛ヨリ大久保利通ヘ徳川慶喜追討ニツキ書翰」(『鹿児島県史料 忠義公史料』五所収)では、西郷の言う別紙とは、同年1月25日付けの春嶽宛て慶喜書簡としていますが、前出の「戊辰日記」によると、同書簡は2月4日に越前藩邸に到着していることが分かり、西郷書簡が書かれた後であることから、誤解であることが分かります)

当時の西郷の感情を正確に把握するために、平山が代筆した春嶽宛て慶喜書簡(宛名は大蔵大輔)の大部を抜粋すると、そこには「鳥羽・伏見の戦い」について、次のように書かれています。

「去る三日先供之兵隊、鳥羽伏見兩道より入京候處、薩藩士指留應接中、伏兵一時に起り、発砲に及候に付、兩所共無據應砲、怪我人も多人数有之、實に意外之次第に而、不料奉驚宸襟、人民を損傷致し、兼而之素意にも相背候間、斷然大坂城を御兩家へ託し、兵隊を為引揚候、全く一時供先之争闘附會して、或は朝敵之悪名を負しむる哉にも承り、實に意外恐歎之至に而、畢竟華城を棄て、赤心を表候得共、何分近來事々素心に背候事とのみに而、遂に病魔に被侵、事務取扱兼候間、退隠いたし、跡式之儀は、相撰申付候積」(『戊辰日記』)

西郷がこの慶喜書簡を見て、烈火の如く怒った気持ちも理解できます。
見てのとおり同書簡には、鳥羽・伏見の戦いは先鋒同士の偶発的な衝突で生じたことであったとあり、まるで自分はあずかり知らなかったと言わんばかりに、慶喜の言い訳の言葉が書き連ねられています。そこには慶喜の命により出兵した将兵たちをかばう言葉も無ければ、まるで自分の責任を転嫁・放棄しているかの如く、幕府兵を残して大坂城を退去したのも、朝廷に対して赤心を示すためであったとありますが、西郷にとってこれらの言葉は、保身に走る慶喜自身の苦しい言い訳にしか聞こえなかったことでしょう。
また、同書簡には、慶喜自身による謝罪の言葉や恭順の意を示すような言葉は一切書かれておらず、ただその進退についてのみ、「ついに病魔におかされて、諸事取り扱いが出来なくなったので、隠居して跡目を決めるつもり」とあるだけです。

また、慶喜は同書簡の中で春嶽に対して、「前文意外之汚名相雪候様、此上にも御鼎力、千萬拝嘱する處に御座候」と依頼しており、慶喜は自身に被された罪を「汚名」と称しています。
このような書簡の内容を見て、西郷は慶喜が心から反省し、謝罪の意を示しているとは到底思えなかったのでしょう。
西郷が「慶喜を切腹にしなければ済まない」との過激な言葉を使い、大久保に対して慶喜厳罰論を主張した原因はそこにあったと思われますが、そのような感情は何も西郷に限ったことでは無く、大久保も同じ思いでいたと思われます。

同年2月16日付けで、大久保が鹿児島の蓑田伝兵衛に宛てた書簡には、慶喜の処分について、次のように書かれています。

「親征ト迄被相決候を退隠位ヲ以謝罪なとと益愚弄奉る之甚舗ニ御坐候、天地不可容之大罪なれハ天地ノ間ヲ退隠して後初て被解兵可、然左もナクハ寸毫御猶豫被為在候ては例之譎詐権謀ニ陥リ給フハ案中ニ御坐候」(『大久保利通文書』二)

この大久保の書きぶりは、西郷の慶喜厳罰論と酷似しています。
大久保曰く「天地ノ間ヲ退隠して」とは、すなわち「慶喜の死」を意味しています。
天地から身を隠すということは、現世から居なくなることを指しますので、大久保は慶喜の死があって後、初めて解兵するべきだと論じているのです。

以上のように、西郷や大久保は、その書簡内で「慶喜厳罰論」に言及していますが、一方新政府の中心人物の一人でもあった岩倉具視は「慶喜寛典論」を主張したため、徳川家の処分案を巡り、西郷・大久保と岩倉との間に意見の対立があったかのように言われることがあります。
確かに、岩倉が徳川家の寛典に動いたことは事実です。
前出の「戊辰日記」によると、慶応4年1月23日、岩倉が春嶽を呼び出して内談したとの記述が出てきますが、岩倉の要件とは徳川家の処分についてでした。
岩倉は「謝罪之道相立候へは、社稷之保存に於ては、岩倉殿死を誓って御請合候間、生霊之為、宗家之為、此御周旋は公に限り候」と、謝罪の道が立ちさえすれば、徳川家の社稷を守ることを請け負うので、そのために旧幕府と新政府の間を周旋して欲しいと春嶽に対して依頼しました。
「戊辰日記」によると、そのような岩倉からの依頼を受けた春嶽は、まず家臣の中根雪江と相談して欲しいと回答したようですが、中根は岩倉に会ってその内意を聞くと、「不容易大事候得は、主人存寄も篤と相伺ひ、熟考可仕旨申上」と即答は避けたようです。
しかし、その三日後の1月26日、岩倉は春嶽に対して、同様の趣旨を記した次のような書簡を送っています。

「今度徳川慶喜進退實に不可言次第百事去候儀には候得共、尚今日に至り為宗家御苦心之條令推量候、若條理上に於て齟齬する事なく其道相立候様有之候はヽ豈血食之事懸命有之間敷歟、聊見込之旨も有之候間足下内々周旋之儀後難なかるへし」(『岩倉具視関係文書』三)

このように、岩倉は具体的に慶喜の名を出し、春嶽に対して、内々の周旋を依頼したのです。
また、岩倉はこの春嶽宛て書簡の中で、「素より廟議と申義には無之臣一己之見込之儘申進候迄に候也」とも書いており、これは朝廷の廟議を経た結果ではなく、岩倉の個人的な考えであることを念押ししていますが、このように岩倉が徳川家の処分を軽減するよう個人的に動いたのは、『岩倉公実記』下によれば、情勢探索のため江戸に派遣していた門下生・伊藤謙吉のもたらした情報に起因しています。
江戸において探索活動にあたっていた伊藤は、前橋藩士らが中心となり、慶喜を廃嫡して禁固することによって、新政府に対する謝罪の実効を立て、徳川家の社稷を守ろうとする動きがあることを知り、帰京後、岩倉に対してそれを報告しました。
また、『岩倉公実記』には、第14代将軍・徳川家茂夫人の静寛院宮(和宮)が、東海道鎮撫総督の橋本実梁に対して嘆願書を書き送ったことも、岩倉が徳川家の寛典に動いた原因としていますが、岩倉が春嶽に書簡を送った段階では、まだ静寛院宮からの嘆願書は正式には朝廷に届いていない状況でしたので、元々岩倉の心中には、謝罪の実効が立つようであれば、徳川家を寛典に処する気持ちが少なからずあったものと思われます。

以上のように、徳川家に対する処分案を巡り、西郷と大久保は厳罰論、岩倉は寛典論であったと思われますが、この両者の間に大きく意見の食い違いがあったのかと言うと、実際そうではありません。
『大久保利通文書』二に、慶応4年2月に書かれたものとされる「徳川氏處分に關する意見書」という文書が入っています。
これは文字通り、慶喜ひいては徳川家に対する処分の草案というべきものですが、その第一項には次のようにあります。

「一、恭順之廉ヲ以慶喜處分之儀寛大仁恕之思食ヲ以死一等ヲ可被減事」

この意見書は大久保が起草し、岩倉に対して差し出したものだとされており、『大久保利通文書』の同文書の解説にあるように、これは西郷と大久保が予め協議したうえで作成し、岩倉と三条実美に提出して、その内議を経ていた慶喜の処分案だと言われています。

この処分案の趣旨は、「慶喜が恭順するのであれば、死一等を減じて、寛大な処分にする」という、いわゆる「慶喜寛典論」ですが、前出の西郷や大久保が自らの書簡内で主張していた「慶喜厳罰論」とは相反していることが分かります。
このギャップは一体何を意味しているのでしょうか?
まず考えられるのは、西郷と大久保の二人が岩倉からの説得を受け、翻意したということです。
前述のとおり、岩倉は春嶽に対して徳川家寛典の周旋依頼を行い、また、静寛院宮からの嘆願書を受け、慶喜に謝罪の道が立てば寛典に処する気持ちに傾いていたため、岩倉が西郷と大久保に対して、翻意を促したことは十分に考えられます。
ただ、では西郷や大久保が頑なに慶喜厳罰論に固守していたのかと言うと、実際はそうでは無かったでしょう。
前述のとおり、西郷が「切腹」という言葉を使ってまで慶喜の厳罰論を主張したのは、慶喜が発信した書簡が大きな原因であるとも言え、もしあのような言い訳がましい、まるで保身をはかるかのような書簡では無く、慶喜自身の手による謝罪・恭順の言葉が書かれた嘆願書が届いていたとしたならば、西郷があそこまで態度を硬化させ、怒ることは無かったように思います。
西郷と大久保が示し合わせて作成した処分案を見る限り、元々西郷は謝罪・恭順の実効が立つのであれば、慶喜の命を奪うまでの厳罰を与える必要は無いと考えていたのではないでしょうか。

また、元々薩摩藩の士風として、戦に負け軍門に降ってきた敗者に対し、さらに過酷な仕打ちを行うような流儀はありません。
そのことは西郷書簡の中にもいくつか散見できます。
例えば、慶応元(1865)年3月、西郷が筑波山で挙兵した水戸藩の天狗党に対する幕府の過酷な処分命令を拒絶するために書いた上書の控えには、次のような言葉が出てきます。

「古来より降人苛酷の御扱い相成り候儀、未だ嘗て聞かざる処に御座候」(「幕命拒絶の薩摩藩上書控」『西郷隆盛全集』二)

これは幕府の天狗党に対する過酷な処分を知った西郷の率直な感想であると言えますが、さらに西郷は、流罪と決まった天狗党の者たちを薩摩藩で引き取るよう幕命が下ったことに対して、大きな憤りを見せ、「弊国にては降人厳重の扱い方、道理において出来兼ね申し候」と幕府に対して回答しようとしています。

以上のようなことを考え合わせると、西郷が大久保宛ての書簡内で慶喜厳罰論を吐いたのは、慶喜自身に反省の態度が見られないこと(少なくとも西郷や大久保はそう感じていた)が大きな原因であったと言えるのではないでしょうか。
また、当時の西郷や大久保が最も懸念・危惧していたのは、慶喜自身に反省・恭順の態度が見えないままに、なし崩し的に寛典が決まることであったように思います。
それは前出の大久保宛て西郷書簡内にも「必ず越土杯よりも寛論起り候わんか」との言葉があるとおり、鳥羽・伏見の戦いが起きる以前から、越前、土佐、尾張藩などを中心に、慶喜に対する同情論が根強く残っていたため、その辺りから生じる甘い処分案を払拭するためにも、西郷は意識的に強硬論を唱える必要があったように思います。
西郷は東征前の寛典論は士気に関わるものと考え、それを払拭したうえで、実際の交渉にあたろうと考えていたのではないでしょうか。

特に、西郷や大久保は、これまで慶喜の政略に何度も嵌まり、散々振り回され、苦渋の決断を強いられてきた経験があります。
参豫会議しかり、四侯会議しかりです。
現に、前出の蓑田宛て大久保書簡には、「例之譎詐権謀ニ陥リ給フハ案中ニ御坐候」と、慶喜の術中に嵌まることを警戒する言葉が出てきます。
大久保自身も、なし崩し的に慶喜を赦免すると、これまでのように慶喜が権謀術数を操り、また巻き返しを図られるのでは無いかと警戒していたように感じられます。
当時の新政府の基盤は、まだまだ盤石なものではなかったため、大久保の心中には慶喜を警戒する気持ちが非常に強かったと言えましょう。

以上のようなことから、西郷と大久保は、もし慶喜が少しでも謀略を用いて反抗の態度を見せれば、容赦なく武力をもって討つ覚悟は出来ていました。
そのような気持ちは、西郷と大久保の処分案の最後に、

「右三ヶ條ヲ以早々實行ヲ擧候様、朝命嚴然降下若シ奉セスンハ官軍ヲ以テ可打碎之外條理有之間舗奉存候事」

とあることで分かります。
ここにある三ヶ条とは、前述のとおり、「一、慶喜が恭順するのであれば死一等を減じて寛大な処分にすること」に加えて、

二、慶喜は軍門にて伏罪のうえ、その身柄を備前藩に預けること。
三、江戸城を明け渡すだけでなく、軍艦・武器等も引き渡すこと。

の二つの条件でした。
これらの条件は、後に輪王寺宮山岡鉄舟が慶喜嘆願のために静岡の大総督府を訪れた際に提示された条件とほぼ同様の内容と言えますので、このことからも、西郷は東征に出発する前に、大久保と相談し、この三つの条件を腹案として持っていたことが分かります。
以上のように、西郷と大久保は、慶喜に少しでも不審な動きがあれば、討伐することも辞さない覚悟で対徳川交渉に臨もうとはしていましたが、その一方で慶喜を赦免する条件も併せて持っていたと言えるのです。

こうして、慶応4年2月12日、西郷は京を出発し、軍勢を率いて東海道を下り江戸へと向かうわけですが、前述のとおり、西郷は慶喜を赦す腹案を既に持っていました。
『熾仁親王日記』一には、そのことを裏付ける記述があります。
同年3月6日の条に、「今日巳ノ刻軍議之事、東海道先鋒大総督参謀兩方下参謀等一同示談之事」と、大総督府において軍議が開かれ、そこで「一 江戸進撃期限來十五日決定之事」と、江戸総攻撃を3月15日とすることを決定したとありますが、それに加えて、「別秘事」として、

「一 慶喜若眞ニ恭順恐入、奉待天譴候心底ナラハ軍門來リ而可拜事」

と書かれています。
つまり、「別秘事」とは秘密の案です。
大総督府は、もし慶喜が恭順した場合のことを想定し、予めその処置を軍議で決めていたわけですが、これは西郷と大久保が相談して作成した腹案が大きな影響を与えていたことは間違いありません。

しかしながら、その慶喜赦免のカードは、旧幕府軍や慶喜自身の態度を見定めたうえで切るべきものと西郷は考えていたと思われます。
後に、西郷は山岡との交渉の中で、旧幕府軍が甲州で新政府軍と戦闘に及んだことを重視し、そのことについて山岡を問い詰めています(『明治戊辰山岡先生与西郷氏応接筆記』)。
西郷としては、謝罪の実効が立たないようであれば、容赦なく慶喜を討伐つもりであったからです。

image20180930.jpg
西郷・山岡会見之地碑(静岡市)

ただ、西郷自身も山岡に対して配慮しています。
山岡に対して示した降伏条件の中には、「軍門にて伏罪する」という条件が無くなっているからです(「山岡鉄太郎へ示した徳川家処分案」『西郷隆盛全集』二)。
西郷は山岡と交渉した際、旧幕府側にとって屈辱とも取れるこの条件を外し、慶喜自身が恭順しやすいように配慮したのです。
また、西郷は山岡に対して次のように言ったと、山岡は後年書いています。

「唯進軍ヲ好ニアラス恭順ノ實効サヘ立ハ寛典ノ御所置アラン」(『明治戊辰山岡先生与西郷氏応接筆記』)

これを見ても、西郷が遮二無二慶喜の首を求める厳罰論を主張していたわけではなく、慶喜を赦すことも視野に入れたうえで山岡と交渉していたことが分かります。

西郷は山岡と会って話を聞き、そして勝海舟からの書簡を読み、慶喜の謹慎の態度を聞いたことで、真に反省・恭順の態度が見込め、謝罪の実効が立つと判断したからこそ、その後、慶喜の寛典に大きく傾斜していったと言えるのではないでしょうか。
一般に言われているように、西郷は何が何でも慶喜の首を取ろうとする厳罰論に固守していたわけではなく、そこにはあらかじめ硬軟織り交ぜた考えがあり、慶喜自身に真に反省・謝罪の態度が見られるのであれば、それを見定めたうえで慶喜を赦免することも視野に入れていたと言えましょう。


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【2018/10/07 20:46】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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zampanogelsomina
粒山様
「西郷どん」視聴後に、いつも楽しく拝読させて頂いております。
幕末の薩摩藩の動向についてはある程度基本的な事は理解しているつもりでしたが、粒山様のブログを拝読させて頂きながら、毎回勉強させて頂いております。
もちろん「維新を創った男 西郷隆盛の実像」もです。

物語も終盤ですが今更ながら、「西郷どん」の時代考証は粒山様や桐野作人氏が担当すれば良かったのにと、思います。

来月、鹿児島での講演会楽しみにしております。

ありがとうございます
粒山 樹
コメントありがとうございました。
拙稿について、毎回お読み頂いているとお聞きし、大変嬉しく思っております。

『西郷どん』は、かなりフィクション色が強くなってしまいましたが、史実と創作のバランスは本当に難しいですね。
来月の講演会については、余り大したお話は出来ないと思いますが、一生懸命お話ししたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

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この記事へのコメント
粒山様
「西郷どん」視聴後に、いつも楽しく拝読させて頂いております。
幕末の薩摩藩の動向についてはある程度基本的な事は理解しているつもりでしたが、粒山様のブログを拝読させて頂きながら、毎回勉強させて頂いております。
もちろん「維新を創った男 西郷隆盛の実像」もです。

物語も終盤ですが今更ながら、「西郷どん」の時代考証は粒山様や桐野作人氏が担当すれば良かったのにと、思います。

来月、鹿児島での講演会楽しみにしております。
2018/10/08(Mon) 13:03 | URL  | zampanogelsomina #9K64Lzaw[ 編集]
ありがとうございます
コメントありがとうございました。
拙稿について、毎回お読み頂いているとお聞きし、大変嬉しく思っております。

『西郷どん』は、かなりフィクション色が強くなってしまいましたが、史実と創作のバランスは本当に難しいですね。
来月の講演会については、余り大したお話は出来ないと思いますが、一生懸命お話ししたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
2018/10/09(Tue) 12:30 | URL  | 粒山 樹 #-[ 編集]
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