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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
以前も少し書きましたが、今回も西郷の弟の信吾(のちの従道)が、戦争嫌いの平和主義者であるかのように描かれていましたが、一体どういう意図なのかが、さっぱり分かりません。
明治維新後、信吾が文官に転身しているならいざ知らず、武官で軍事畑一筋の道を歩んだ人物ですので、それを平和主義者に仕立てること自体に無理があるとしか言いようがありません。
ことさらに西郷の考えに反発していることから察すると、やはり後に生じる「征韓論争」を巡っての兄弟の別れを意識してのことなのでしょうか?

(吉二郎の死)
今回の『西郷どん』のもう一人の主役は、西郷の弟・吉二郎であったと言えましょう。
吉二郎については、これまでも折に触れて書いてきましたが、西郷より五歳年下の次弟です。

西郷家にとって、吉二郎は無くてはならない貴重な存在でした。
西郷が国事に奔走し、全国各地を飛び回る間、その留守をしっかりと預かったのが吉二郎であったからです。
西郷が島津斉彬に付き従い初めて江戸に出た際、吉二郎が残された西郷家の家事全般を引き受けたからこそ、西郷の出府は可能となったのであり、また、西郷が投身自殺未遂を経て奄美大島に潜居し、その後、島津久光から処罰され、徳之島・沖永良部島へ遠島になった際も、吉二郎という存在があったからこそ、西郷家はその逆境を乗り切ることができたと言えましょう。
「西郷隆盛伝」(『大西郷全集』三)によれば、西郷はそんな吉二郎に対して、

「同胞の中の先出を兄としてこれを敬し、後生を弟としてこれを憐むは、天下の通情である。しかしこれは、兄は世事に通ずること弟に勝るある場合のことである。己は、兄に生まれたけれど、とても汝には及ばない、これから己は汝を兄と思ふ」

と語ったとあります。
このように、吉二郎の存在があったればこそ、西郷は安心して国事に奔走することができたのです。

しかしながら、吉二郎はのちに非業の死を遂げます。
今回描かれたように、吉二郎は北越で繰り広げられた戊辰戦争に出陣し、慶応4(1868)年8月2日、「五十嵐川の戦い」において腰に銃弾を受け、その12日後の8月14日に越後高田の病院で亡くなりました。
西郷はその吉二郎の死について、明治2(1869)年3月20日付けで奄美大島の得藤長に宛てた書簡の中で、

「将又愚弟吉次郎には越後表において戦死いたし、残念此の事に御座候。外の両弟は皆々無難に罷り帰り、仕合わせの次第に候。拙者第一先に戦死致すべき処、小弟を先立たせ、涕泣いたすのみに御座候。御悲察給うべく候(弟の吉二郎については、越後表において戦死いたし、残念無念です。他の二人の弟は無事に帰り、幸せの次第ですが、私が真っ先に戦死しなければならないところ、弟を先立たせてしまい、涙を流すにほかなく、私の悲しみを御推察ください)」(『西郷隆盛全集』三)

と書いており、自分に代わり苦労ばかりさせたうえ、先立たせてしまった弟の死を深く悲しんでいます。

今回の『西郷どん』では、江戸無血開城を成し遂げた西郷が鹿児島に帰国し、その際、吉二郎が西郷に従軍を志願するという形で話が展開していましたが、実際は異なります。
西郷が鹿児島に帰国した当時、西郷と吉二郎とは別行動となっており、吉二郎は既に戊辰戦争に従軍していたからです。

まず、西郷家の家政上の記録である「万留」(『西郷隆盛全集』四所収)から、吉二郎の履歴を振り返ると、ペリーが浦賀に来航した嘉永6(1853)年、吉二郎は父・吉兵衛が勤めた勘定所の書役助に登用されたのを皮切りに、西郷が久光から断罪された影響で、一度は遠慮(自発的謹慎)の処分を受けましたが、元治元(1864)年9月26日には横目助となり、11月には銃薬水車方掛に任命されました。
また、翌年の慶応元(1865)年9月には徒目付、御製薬方掛となり、役料も米弐拾四俵壱斗の支給を受けています。
藩の重役へと上り詰めた兄と比べると、その役職は低いと言えますが、吉二郎も順調に一段ずつ、出世の階段を登って行ったと言えましょう。

そんな吉二郎もまた、西郷と同様に国事への熱い思いを捨てきられず、兄と共に働く機会を求め、京へと出発します。
朝廷から降下された「討幕の密勅」を携え、慶応3(1867)年10月17日、小松や大久保とともに鹿児島へ帰国の途についた西郷は、その一ヶ月後の同年11月13日、藩主・忠義に付き従い、三千の薩摩藩兵を率いて再び上京しました。
大政奉還が成った今、さらに一歩進んで王政復古を成し遂げるべく、薩摩藩は在京兵力を増強しようとしたわけですが、その際、吉二郎も兄と一緒に京へと上ったのです。

そして、年が明けた慶応4(1868)年1月、薩長軍と旧幕府軍が衝突した「鳥羽・伏見の戦い」が起きるわけですが、吉二郎が病気のため、その戦いに出陣できなかったことは、前々回のブログで書きました。
西郷は慶応4(1868)年1月10日付けで、鹿児島の西郷宅に寄宿していた川口雪篷に対して送った書簡の中で、「吉二郎には病気にて引き入れ居り、気の毒の事に御座候」(『西郷隆盛全集』二)と書いていますが、当時吉二郎が属していた府下小銃八番隊の監軍・相良甚之丞が提出した報告書にも、

「但引合西郷吉二郎儀者病気にて出軍不致候」(『薩藩出軍戦状』一)

と同様の記述があります。
このように「鳥羽・伏見の戦い」において、西郷家の男兄弟四人の従軍は叶わなかったのです。

その後、西郷は前回のブログで書いたとおり、慶応4(1868)年2月12日に京を出発し、東海道を下って江戸へと進撃することになりますが、吉二郎はと言えば、遅れること三ヶ月後の5月10日、京を出発します。
しかし、その出陣は兄とは違い、北越方面への援軍としてでした。
吉二郎が京を出発する約一週間前の5月2日、長岡藩家老の河井継之助と新政府軍の軍監・岩村精一郎との談判(小千谷談判)が決裂し、長岡藩が旧幕府側に付いて参戦することが決定されたこともあって、吉二郎ら薩摩藩の府下小銃八番隊は、北越方面へと派遣されることになったのです。

吉二郎が京を出発した5月10日時点で言えば、江戸ではまだ彰義隊との戦いは始まっておらず、西郷は依然として江戸に滞在している状況でしたので、当時の二人は既に離れ離れになっていました。
今回の『西郷どん』で描かれたように、戊辰戦争への出陣を巡って、兄弟二人がやり取りするような状況では全く無かったのです。

以上のように、吉二郎は府下小銃八番隊の監軍として、西郷とは別れて北越方面へと出陣することになりましたが、北越では長岡藩や会津藩兵が新政府軍に対して頑強に抵抗している状況にあり、戊辰戦争において一、二を争う激戦となっていました。
西郷従徳『西郷吉二郎大人』には、

「花は白河、難儀は越後、物の哀れは秋田口、岩城平は噂なし」

という、当時新政府軍内で流行った陣中歌が紹介されていますが、このように越後における戦いは、新政府軍にとって誠に難儀なものであったのです。

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長岡城二の丸跡(長岡市)

越後方面の新政府軍が苦戦しているとの一報を受け、当時鹿児島に帰国していた西郷は、慶応4(1868)年8月6日、兵具方付士一番隊、兵具方二番隊・三番隊の三小隊を率いて、軍艦・春日丸に乗り、増援部隊として越後を目指して出発しましたが、前述のとおり、この時既に吉二郎は、遠く離れた越後の地で敵の銃弾に倒れていました。
当時の吉二郎は番兵二番隊に転属し、監軍として隊を指揮していましたが、8月2日の「五十嵐川の戦い」において、腰に銃弾を受ける重傷を負っていたのです。
同隊の戦闘記録には、

「翌二日月岡村迄進軍いたし候處、同所川向ひへ賊兵相見得候付、曲淵村五十嵐川渡し場へ繰出し漸く渡し舟一艘を引付既に乗渡らんとせし所、右の渡場へ賊大勢繰出し互に渡し場相争ひ、終日終夜砲戦苦闘未明に及賊退散」

とあり、8月2日は終日に渡り、激しい砲戦が繰り広げられ、新政府軍は苦戦を強いられたとあります。

「万留」(『西郷隆盛全集』四所収)によると、この五十嵐川の戦いにおいて負傷した吉二郎は小銃を携帯していたようです。
「吉二郎携銃取調べ」という文書によると、「吉二郎戦死之節相携候シヤアフル」との文言があり、吉二郎がアメリカ製の元込め銃である「シャーフル銃(シャープス銃)」を所持していたとあります。(ちなみに同文書には、「自筒之段も申出置候」との文言があることから、このシャーフル銃は西郷家の持ち物であったことが分かります)

前出の戦闘記録にあるように、五十嵐川の渡し場を巡り、両軍は攻防戦を繰り広げたわけですが、それは激しい銃撃戦を伴うものであったのでしょう。
吉二郎は銃弾飛び交う戦場において、味方を鼓舞・督戦中、敵の銃弾に倒れたのです。
そのことを知らない西郷は、8月10日に越後の柏崎港に到着しますが、吉二郎はその四日後の8月14日、高田の病院で亡くなりました。享年35歳の若さでした。

弟の死を聞いた西郷の悲しみは、いかばかりであったでしょう……。
これまで苦労ばかりを強いてきた弟の死を聞き、大いに嘆き悲しんだに違いありません。
「万留」(『西郷隆盛全集』四所収)によると、明治2(1869)年11月11日、薩摩藩は吉二郎の遺族に対して、扶持米七十俵を三十年間支給すると決定したとあります。


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【2018/10/14 20:46】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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ダラオイリハ
戊辰戦争、えらくあっさりとした描き方でしたね。
ま、西郷を主役とするドラマとしては東北・蝦夷の戦線はそれほど重要では無かった、と言う事なのでしょうね。

庄内藩への扱いですが、長州っ違い武人の心意気を残している薩摩としては、庄内藩の戦いぶりに対し武人として敬意の念があったように思います。
実際、新政府軍としては勝負では勝ったとは言え、列藩を裏切った連中もろとも秋田まで追い込まれており、喧嘩では実質負けていましたからねえ。

ドラマ解説ありがとうございます
mimi
変だと思った史実とのちがいがよくわかりました。
東北・蝦夷の戦線がまったく出てこないのは「遺訓」もなきものにされているかのようで主役をかつぐみなさんにとっても遺憾では。視聴率も低く東北のみなさんも観なくてよかったかもしれません。観たかたはまさにないがしろにされたので憤激しないのでしょうか。幕末のご先祖ほどの気概もないのかな。変な気概があるとまた殺し合いをしてしまいそう。
銃を持つと人が変わると申しますけれど、ナポレオン戦争あたりから一段と大規模に狂い始めた西洋。脅威を感じて狂気の真似を始めてしまったのがこの時代。狂気を先導し狂気の犠牲となった西郷。やっと西洋も正気にかえりつつある昨今、狂気のはじまりを振り返るのも大事なんでしょう。

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戊辰戦争、えらくあっさりとした描き方でしたね。
ま、西郷を主役とするドラマとしては東北・蝦夷の戦線はそれほど重要では無かった、と言う事なのでしょうね。

庄内藩への扱いですが、長州っ違い武人の心意気を残している薩摩としては、庄内藩の戦いぶりに対し武人として敬意の念があったように思います。
実際、新政府軍としては勝負では勝ったとは言え、列藩を裏切った連中もろとも秋田まで追い込まれており、喧嘩では実質負けていましたからねえ。
2018/11/06(Tue) 12:01 | URL  | ダラオイリハ #I9fgO9Q6[ 編集]
ドラマ解説ありがとうございます
変だと思った史実とのちがいがよくわかりました。
東北・蝦夷の戦線がまったく出てこないのは「遺訓」もなきものにされているかのようで主役をかつぐみなさんにとっても遺憾では。視聴率も低く東北のみなさんも観なくてよかったかもしれません。観たかたはまさにないがしろにされたので憤激しないのでしょうか。幕末のご先祖ほどの気概もないのかな。変な気概があるとまた殺し合いをしてしまいそう。
銃を持つと人が変わると申しますけれど、ナポレオン戦争あたりから一段と大規模に狂い始めた西洋。脅威を感じて狂気の真似を始めてしまったのがこの時代。狂気を先導し狂気の犠牲となった西郷。やっと西洋も正気にかえりつつある昨今、狂気のはじまりを振り返るのも大事なんでしょう。
2018/12/03(Mon) 02:26 | URL  | mimi #YeFwB4VE[ 編集]
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