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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
今回の『西郷どん』に、薩摩藩士・横山安武が登場しました。
横山安武が歴史ドラマに登場するのは非常に稀なことだと言えますが、彼を登場させたのは、とても意味があったように思います。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』においても触れましたが、戊辰戦争の終結後、鹿児島に引きこもっていた西郷が、明治4(1871)年1月、意を決して東京へと向かったのは、その前年7月に生じた横山の死と全く関係が無かったとは言い切れません。
いわゆる「諌死」とも言うべき横山の憤死は、当時国政の表舞台から離れ、鹿児島に隠逸していた西郷に対して、大きな心理的影響を与えたと思われるからです。

しかしながら、今回のドラマ内において、横山が西郷に対して、「先生は、政府の犬になられたとでごわすな」と吐き捨てるように批判するシーンがありました。
西郷家に引き取られた愛加那の子の菊次郎が、そんな父の姿を見て失望するという演出でしたが、もちろんこれはフィクションであり、この横山が西郷を批判するシーンは、二人の関係性をある意味無視した演出だったと感じましたので、今回は横山が西郷の存在をどのように考えていたのかについて書きたいと思います。

(横山安武の死)
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』の第八章「明治政府―西郷の苦悩と決意―」で書きましたが、明治3(1870)7月26日の深夜、横山安武は上書と別紙に分けた二通の建言書を竹竿に挟んで集議院の門扉に差し込み、その後、割腹自殺して果てました。
集議院とは、明治2(1869)年7月、公議所に代わって設置された議政機関ですが、元々待詔院(待詔局)で行われていた、各方面からの進言・上書などを受け取り、それを審議する機能を併せ持っていました。
集議院規則には、

「一、集議院中別ニ一局ヲ設ケ、天下之進言献策有用之材ヲ総ヘ寄宿セシメ、其徳行才能ヲ考試スベキ事」(「集議院ニ関スル達書及ヒ規則」『忠義公史料』六)

とあり、その一端をうかがい知ることが出来ます。
横山が自ら執筆した上書を集議院の門扉に挟んで自決したのは、自らの建言を政府に届けようとする意味があったのです。

横山が書いた二通の建言書は、前者は政府に対する批判書であり、後者は当時政府内で生じていた征韓論の非を記したものでしたが、横山の自決は、政府の秕政を糺すための諌死というべきものでした。
横山が書いた上書は、

「方今一新之期、四方着目之時、府藩県共朝廷之大綱ニ依遵シ、各新ニ徳政ヲ敷クヘキニ、豈科哉、旧幕之悪弊、暗ニ新政ニ遷リ、昨日非トセシモノ、今日却テ是トナスニ至ル(今、世が一新され、四方から着目される時であり、府藩県共に朝廷の大綱に従い、各自新たに徳政を敷くべき時であるにもかかわらず、旧幕府の悪弊は暗に新政府へと移り、昨日は非としていたものが、今日は是となる始末である)」(「横山安武時弊十条及ヒ征韓ノ非ヲ集議院ニ陳疏シテ自刃ス」『忠義公史料』六)

との文言から始まり、その後、十ヶ条に渡って政府の弊害を論じていることから、一般に「時弊十ヶ条」と呼ばれています。

横山が「時弊十ヶ条」を執筆し、自決するに到った心境について、西郷は大きな共感を抱いていたのでしょう。西郷は横山の死を悼み、

「精神貫日華夷見、気節凌霜天地知(精神、日を貫いて華夷にあらわれ、気節、霜をしのいで天地を知る)」

という弔旗を揮毫し、明治5(1872)年5月には、彼のために顕彰碑の碑文まで書いています。

このように、西郷と横山とは深い縁で結ばれていたと言えますが、ここでまず横山の履歴を振り返っておくと、彼は天保14(1843)年正月元旦生まれで、西郷より15歳も年下です。
横山の実家は鹿児島城下城ケ谷の森家で、実弟にのちの文部大臣・森有礼がいるのはとても有名な話ですが、河野辰三『横山安武伝記並遺稿』によると、安武は森有恕の四男として生まれ、安政3(1856)年12月29日、出でて横山安容の養子となりました。
同書によると、森家と横山家は隣り同士であったことから、安武の兄弟たちは、藩校造士館の助教で御軍役方掛を務めていた横山安容の薫陶を受けて育ったとあります。安武が安容亡き後の横山家の養子に入ったのも、そういった両家の古い縁があったからなのでしょう。

『横山安武伝記並遺稿』によると、横山は最初斉彬の御小姓として出仕し、その後、久光の側仕えをしたようですが、詳細はよく分かりません。
ただ、のちに西郷が自決した横山のために書いた顕彰碑の碑文には、

「癸亥歳英艦来戦於鹿児島港。人家数百罹兵燹。安武之家亦逢其災。邦君毎戸賜金以救其急。安武以多年勤労之功特蒙賞賜。安武恤故人貧困者、乗夜以賜金竊投於其家而去。家人不知其故、踊躍以為天神之冥助也」(「横山安武碑文」『西郷隆盛全集』四)

とあり、文久3(1863)年7月に起こった薩英戦争の際、横山は自らの家屋敷を焼かれ、罹災しながらも、藩主から多年の功労を認められ支給された慰労金を惜しげもなく死者が出た家や貧困者に対して恵んだとの逸話が記されています。

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横山安武碑(鹿児島市)

薩英戦争において、横山家や森家があった上町と呼ばれる一帯は、イギリス艦隊の砲撃により、多大な戦災を被ったことは事実ですが、まるで「ねずみ小僧」のように、夜半にお金を投げ入れる行為が実際にあったのかどうかは、少し割り引いて考える必要があるかもしれません。
しかしながら、この逸話から、横山の正義感が強く、慈愛に満ちた性格の一端を知ることが出来ると言えましょう。

(横山と長州藩脱隊騒動)
慶応3(1867)年3月25日、西郷や大久保が中心となって画策した四侯会議に出席するため、久光は鹿児島を出発して上京の途につきますが、この時24歳になった横山も久光に同行しています。
『横山安武伝記並遺稿』には、その時の感慨を詠んだ横山の和歌が記されています。

「浮雲は 払ひ尽して 九重の そらにもてらせ 君が真心」

上京する久光に対する大きな期待が込められた和歌であると言えますが、以前本ブログ内でも書いたとおり、四侯会議は徳川慶喜の政略に嵌まり、わずか一ヶ月ばかりで瓦解します。
横山が大きく落胆したであろうことは想像に難くありません。横山は帰国する久光に付き従い、わずか四ヶ月ばかりの滞在で京を去ることになるのです。

その後、横山は久光の第五子である島津悦之助(のちの忠経)の輔導役となり、年が明けた慶応4(1868)年5月、悦之助に付き従い、佐賀や長州へ遊学の旅に出ています。
『忠義公史料』六には、

「藩庁ニテハ、久光公御子悦之助君(久封後改忠経)肥前佐賀ニ遊学ニ付、横山正太郎安武ニ随伴ヲ命ズ、後更ニ長州ニ赴キ、翌三年ノ春ニ至リ帰国ス」(文書二五二「島津悦之助肥前佐賀ニ遊学ニ付横山正太郎ニ随伴ヲ命ス」)

と記録されており、明治2(1869)年4月19日付けで、知政所から下された横山への辞令が収められています。
同辞令にあるように、悦之助一行はまず佐賀へと向かい、佐賀藩の藩校・弘道館に入寮し、三ヶ月ほど滞在した後、同年9月に最終目的地である山口へと入り、当時萩から山口へと移転していた長州藩の藩校・明倫館に入寮しました。

しかし、年が明けた明治3(1871)年1月、山口で大きな事件が起こります。
いわゆる長州藩諸隊の脱隊騒動です。
長州藩内の兵制改革の一環で行われた諸隊の解兵と常備軍の編成内容に不満を持った遊撃隊を中心とした諸隊の藩兵が大挙脱隊し、藩政府に対して、武力をもって対峙する事件が発生したのです。

ちょうど同時期、山口に滞在していた大久保は、同年1月16日付けで東京の吉井友実宛てに送った書簡の中で、

「兼而風説承候諸隊動揺之事、意外ニ大破之次第にて、木戸初別而心配中ニ而、何分不容易趣ニ被察候」(『大久保利通文書』三)

と書いており、大久保が現地の騒動を直に見て、大いに驚いている様子が分かります。
当時の大久保は、政府内の陣容を強化するため、長州藩主・毛利敬親と久光、そして西郷を東京に呼び寄せることを画策し、鹿児島へ帰国する途中でしたが、長州での脱隊騒動を憂慮した木戸孝允が山口に帰国していたため、大久保は今後の相談を含めて、山口の木戸の元に立ち寄っていたのです。

大久保の日記によると、山口に入った大久保は、明治3(1871)年1月12日、湯田温泉の旅宿に宿泊していますが、そこに木戸が訪問していることが確認できます。そしてその際、大久保は脱隊騒動の詳しい状況を木戸から聞いたのでしょう。
また、その翌1月13日の大久保日記の条には、「横山悦公子等入來」(『大久保利通日記』二)とあり、当時山口に遊学していた悦之助と横山が、大久保の元を訪ねたことが分かりますが、その後、横山は脱退騒動の状況を藩に報告するため、悦之助を山口に残し、2月4日急きょ鹿児島に帰国しました。
勝田孫弥『大久保利通伝』には、

「当時留学生として滞留せし薩藩士横山正太郎、岸良眞吉郎は、直に山口を發して長府に出で、井上・野村等に會して、其事情を告げ、更に帰藩の途に就けり」

とあります。

帰国した横山からの報告を受けた薩摩藩当局は、協議の結果、最終的に西郷を長州へ派遣することを決定しました。
「西郷隆盛伝」(『大西郷全集』三)には、その事情が次のように書かれています。

「二月四日、當時山口へ遊学していた薩藩島津悦之介公子に附いていた横山正太郎(安武)と、岸良眞吉郎とが鹿児島に帰って来て、山口暴動の急を告げた。(中略)大久保は早速桂の許に行って善後策を相談した結果、出兵して長州政府を援けようといふ話になったが、後で西郷が自ら視察慰問に行って、若し必要があったらその時に出兵することにし、隆盛は二月六日大山(巌)、村田(新八)、中村(桐野)を伴ひ、鹿児島を發し、長州へ行ったけれども、既に平定していたので、直ちに帰藩の途に就き、十七日鹿児島に着いた」

このように、西郷は大山、村田、桐野らを伴い、2月6日に鹿児島を出発して長州へと向かいましたが、西郷が山口に到着した頃には、脱隊騒動は木戸らの尽力により、既に鎮静されていたのです。

(横山と西郷)
薩摩藩が長州での脱退騒動を受けて、このように迅速に対応することが出来たのは、偏に横山がもたらした現地の最新情報に依るものが大きかったと言えます。
しかしながら、その横山はのちに藩から罪に問われました。
薩摩藩当局は、公子・悦之助の元を勝手に離れて帰国した横山の行動を問題視し、職務怠慢として、横山に依願辞職するよう迫ったのです。
横山に下された藩の命令書には、

「右ハ変ニ臨ミ職掌ヲ忘却シ候次第、学問ノ詮全ク無之ニ付、厳罰可申付ノ処、寛宥ヲ以故障申立、当職断申出候様可相達事」(『玉里島津家史料』五)

とあり、その事情をうかがい知ることが出来ますが、横山にとって、その藩の処分は納得いかないものであったことでしょう。

以上のように、横山は免職の憂き目にあい、長州藩諸隊の脱隊騒動は、彼の人生の転機になりましたが、その一方この騒動は、横山が西郷の人物や人柄を知るきっかけともなったと言えます。
その根拠は、『横山安武伝記並遺稿』所収の明治3(1871)年2月12日付けで横山が書いた書簡です。
同書にはこの書簡の宛先が明示されていませんが、おそらく山口の悦之助の元に戻った横山が、鹿児島の家族宛てに書いたものだと思われます。
この書簡の中で横山は、長州藩内の脱隊騒動視察のため、長州へと向かった西郷の趣意(考え方)について、次のように書いています。

「西郷氏御使者の趣意御承知も有之候はんと奉存候へ共、大略申上候。兵を興すは誠に大事件、何れ春秋の法を以て名分大義を明かにし、邪正曲直を分明相糺し、朝廷に奏聞し、千載不朽の大眼目を着け候上、兵を興され候つもりなり。さなくして粗卒出兵相成り、可笑ナ応援共仕出し候ては、実に私闘の至り、天下の指に掛り、誠に大事件なる故、一先づ踏み入られ、大義を以て諭され候趣意ならん。右などの趣意聞きて、初て眼を覚せし次第に御座候。……此の節は御国(薩藩)兵隊御差出相成らず候て、双方ながら多幸の至りならん。西郷氏の心慮此の節に到り愈々感心なり」(『横山安武伝記並遺稿』)

この書簡を見る限り、横山は西郷から直接もしくは間接的に、今回長州へ出兵せず、数人の視察員だけで山口を訪問した理由を聞いたのでしょう。
同書簡にあるように、西郷は大義名分が無い限り、朝廷に許可も得ないまま、みだりに兵を動かすべきではないと考えていたことが分かりますが、横山はその西郷の真意を聞き、「初て眼を覚せし次第に御座候」と書いています。
また、横山は、薩摩藩が出兵に到らなかったのは薩長両藩にとって多幸の至りであったとし、西郷の心慮にとても感心したと書いています。

前述しましたが、「西郷隆盛伝」(『大西郷全集』三)の記述にあるように、横山がもたらした脱隊騒動の情報を受けた薩摩藩当局は、当初長州藩へ援軍を差し出すことを決定していました。
そのことは、横山が鹿児島に帰国した当日、2月4日の大久保の日記に次のようにあることから明らかです。

「今日横山正太郎、岸良眞二郎両士神戸丸乗船ニ而従長州報知之為帰藩實ニ内論大混動大事之次第ニ候、桂家江参リ談合す、出殿人数為救應被差出候筋治定拙等も木戸江談合之次第も有之傍観いたし信義不相立候ニ付、則踏込候處ニ決定いたし候」(『大久保利通日記』二)

この記述によると、脱隊騒動の一報を受けた大久保は、家老の桂久武と相談し、この状況を傍観することは信義に反するとして、即長州へ出兵することを決定したとあります。

しかしながら、その翌々日、つまり西郷が大山巌らを引き連れて鹿児島から山口へと向かった2月6日の大久保の日記の条には、

「橋口與一郎子入來、長州江人数差出のこと、西郷等一應御使者相勤候上御治定之由承候」(『大久保利通日記』二)

とあり、当時藩の参政を務めていた橋口與一郎が大久保の元にやって来て、西郷らを使者として長州へ派遣することで話がまとまったと聞いたと書かれています。

このように、わずが二日ばかりの間に薩摩藩の出兵方針が変更になったのは、横山が書簡内で書いているように、西郷が長州への即出兵に異議を唱えたからです。
前述のとおり、西郷は正邪曲直を見極めたうえでの筋道を通した出兵に拘っており、簡単に長州へ派兵することに懐疑的であったのです。
この点からも、大義名分を第一義的に考え、筋を通そうとする西郷特有の出兵論が表れていると言えます。
これは対倒幕戦においても、そして征韓論争における朝鮮への出兵においても、はたまた西南戦争での出兵にも繋がる、西郷の行動や考え方を理解するうえで、とても重要な事項であると言えます。

少し話がそれましたが、実際、山口において脱隊騒動の鎮静化にあたっていた木戸孝允が書いた当時の日記を読むと、木戸は薩摩藩の干渉に敏感になっていたことが読み取れますので、結果的に薩摩藩が出兵しなかったのは、薩長両藩の関係から言っても、横山が書簡内に書いているように「多幸の至り」であったのです。
横山は長らく山口に遊学し、長州藩士らと交わる機会も多かったため、それらの事情を理解していたと言えましょう。
そのため、横山は西郷の心慮に感心し、そして深い感銘を受けたのです。

この長州藩の脱退騒動における西郷の言動は、横山が西郷の人物や人となりを知り、そして西郷を大きく信頼するきっかけになったと私は考えています。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』でも触れましたが、のちに横山が「時弊十ヶ条」を書いて自決した際、二通の建言書の他に、両親等に宛てた五通の遺書を併せて書いていますが、その内の一つである鹿児島藩権大参事の大迫喜右衛門(のちの貞清)に宛てた遺書には、

「御両殿様ヘモ建白ノ賦相認居候処、西郷氏奉職承リ、百事心ニ懸ル事ナク態と差控申候(久光公と忠義公へも建白書を書こうと思っていましたが、西郷氏が鹿児島藩大参事に奉職したことを知り、何も心配することが無くなったので提出を差し控えました)」(『忠義公史料』六)

との文言があります。
横山が西郷が奉職したことで何の心配ないとの言葉を遺し、自決したのは、今回書いた長州藩の脱隊騒動において、横山が西郷に全幅の信頼を寄せることになったことが大きかったと思われます。
きっと西郷ならば、政府の腐敗を正してくれるものと信じ、横山は自決したと言えましょう。
そして、そんな西郷もまた、横山の死を無駄にしないため、明治4(1872)年1月3日、政府改革を胸に秘め、意を決して東京へと向かったと言えるのではないでしょうか。


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【2018/10/21 20:50】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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2018/11/15(Thu) 19:01:41 |  Coffee, Cigarettes & Music