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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
前回から明治編に入り、多彩な人物が登場していますが、土佐や佐賀藩出身の人たちが、薩長の批判勢力のように一括りに扱われているのが少し気になっています。
特に、土佐の板垣退助や佐賀の江藤新平は、後年いわゆる「明治六年の政変」と呼ばれる征韓論争において、西郷側に与した人たちですが、現時点で大久保との対立を殊更煽っていることから察すると、征韓論争を土佐や佐賀閥の政権奪取策の一環として描くつもりなのかもしれません。
また、前回は人間だけでなく、西郷家で飼われていた猟犬たちも登場し、早くも西郷の愛犬・ツンが出てきました。
ただ、鹿児島県教育会編『南洲翁逸話』によると、西郷がツンを手に入れたのは、明治7、8年頃のことであったと伝えられています。同書によれば、西郷が上東郷村(現・薩摩川内市東郷町)の藤川天神に参詣した際、前田善兵衛という者から手に入れたとあり、ツンは虎毛の雌犬で、兎狩りに優れた猟犬であったそうです。
ちなみに、ツンは上野公園の西郷像が曳いている猟犬のモデルだと一般に言われていますが、実際はそうではありません。同じく『南洲翁逸話』によると、上野公園の犬は、海軍大将の子爵・仁禮景範の愛犬を模型として鋳造されたものと伝えられています。
ちなみに、西郷の飼っていた猟犬に「攘夷家」と名付けられた黒毛の犬がいたそうですが、その理由は、洋服の人を見ると居丈高になって吠える犬だったからみたいです(笑)。

(廃藩置県と薩摩藩)
今回は、江戸幕府が開かれて以来、全国各地に設置されていた藩を廃止し、その代わりに県を置く、いわゆる「廃藩置県」が中心でした。
明治2(1869)年6月、全国各地の諸大名から土地と人民を朝廷に返還させる「版籍奉還」が既に実施されていましたが、実際、藩はそのままの形で存続しており、各藩主も知藩事と名を変えただけで、領内の統治は全てこれまで通り大名が執り行っていました。
しかし、廃藩置県は実質的に大名から土地と人民という財産を取り上げる大改革です。そのため、明治に入って以後、封建制をそのまま存続させるか、それとも藩を廃止して郡県制に移行させるかについては、議論が大きく分かれるところでありました。

ドラマの冒頭において、勅使として公家の岩倉具視が鹿児島に入り、久光に対して上京の勅命を言い渡すシーンがありましたが、勅使が鹿児島に来たのは事実です
明治3(1870)年12月18日、当時中央の政治から離れ、鹿児島に引っ込んでいた久光と西郷の上京を求めるため、勅使として岩倉が鹿児島を訪れ、その勅使一行には大久保も加わっていました。
ただ、ドラマとは違い、最初勅使に拝謁したのは、久光ではなく子の忠義でした。大久保の同年12月24日の日記には、「今日於城内勅使御達命、知事公御名代として御承知被為在候」(『大久保利通日記』二)とあります。

拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』において書きましたが、鹿児島到着後の大久保の日記を見ると、「西郷と示談」「西郷氏入来」という言葉がたくさん並んでおり、大久保が頻繁に西郷と会っている様子が分かります。
大久保は、翌明治4(1871)年1月3日まで合計17日間鹿児島に滞在していますが、その間の日記には、西郷と会ったという記述が実に八回も出てきます。この期間は正月を挟んでいることから察すると、日記には記述がない面会も他にあったと思われますので、大久保は滞在期間の半分以上もの間、西郷と会って話をしていたのです。
このように、二人が密に連絡を取りあい、面談したのは、政府の改革案について話し合うためです。

今回のドラマでは、鶴丸城内(鹿児島城内)において、西郷や大久保らが大きな声で廃藩置県について議論する様子が描かれていましたが、このような国家の命運に関わる機密事項をあんな形で、しかも鹿児島において話すことなど、当時の事情を考えれば到底あり得ません。
なぜなら、鹿児島には廃藩置県に反対している久光が居たからです。

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鶴丸城跡(鹿児島市)

今回のドラマ内において、久光は大久保にすがりつくような情けない態度を露呈していましたが、実際の久光は、当時依然として大きな力を維持し続けており、西郷や大久保は久光に対し、多大な配慮を行わなければならない状況にありました。
事実、久光が勅使と会う直前の明治3(1870)年12月22日の大久保の日記には、

「晝后西郷氏入來、猶又見込之處及示談候處盡く同意、安心此之事ニ候、方略ハ十分相定此上ハ二丸公御受之有無ノミニ有之候」(『大久保利通日記』二)

とあり、西郷と会って今後の見込み等を話した結果、西郷がことごとく同意してくれたので安心であると大久保は書いていますが、その一方、こうして方略は十分に定まったとは言え、二丸こと久光がそれを了承してくれるかどうかが問題だとも書いています。
このように、当時の久光の意向というものは、西郷や大久保にとって、最も配慮しなければならないことであったのです。

大久保が西郷と共に久光を東京に連れて行こうと考えたのは、政府改革を成し遂げるためには薩長の力、特に久光の力が必要だと考えたからですが、前述のとおり、廃藩置県は久光の最も忌み嫌う政策でした。
そのため、大久保は久光に対し、そのような過激な話が出来る状態には当時なかったと言えます。大久保はどのようにして久光に上京することを承諾させ、そして事を進めるかということに、細心の注意を払っている状況にあったため、廃藩置県のことなどは、おくびにも出さなかったことでしょう。
大久保日記の12月26日の条には、西郷が久光に拝謁したところ、久光が曖昧な返事しかしなかったため、再び久光を勅使に拝謁させようと画策している様子が分かり、大久保は鹿児島から久光を引っ張り出すことに全集中を使っていたと言っても過言ではありません。

以上のような状況から考えると、今回の『西郷どん』で描かれたように、大久保が城内で廃藩置県云々などを大きな声で口に出せる状況には無かったのです。
むしろ廃藩置県に積極的な意向を示していたのは、木戸孝允ら長州藩士の方だったと言え、薩摩藩士が長州藩士に比べて、こと廃藩置県に関して積極的な言動に出られなかったのは、偏に久光の存在があったからだと言えましょう。

(西郷の政府改革案)
結局、久光は病気を理由にして上京することを延期し、その代わりに西郷は再び上京することになりました。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』において書きましたが、西郷は上京するにあたり、勅使の岩倉に対して、二十四ヶ条にも及ぶ建言を行っています(「西郷隆盛意見書」『西郷隆盛全集』三)。
これは西郷が温めていた政府改革案の基礎とも言うべきものであり、その内容は、兵制、法制、税制などの各種制度改革だけに留まらず、外交や財政、改革手法やその手順にまで、非常に多岐に渡っています。
その中でも特に西郷がこだわっていた、官吏(官僚)改革に関するものだけを列挙すると、西郷は次のような建言をしています。(筆者が作成した現代語訳版を掲載します)

一、上下を問わず官吏については一旦全員辞職させ、適任者は再任し、適任でない者はそのまま辞職させ、有能な者だけを選んで採用すべきである。また、官員数はなるべく減じて、簡素化すべきである。

一、官吏の職掌と分担を定め、互いに委任しあって職掌を守り、他からの干渉を受けないようにする。民情に通じて施策するのは無論のことだが、自らの職分を超えて、他の職分を侵すことは厳禁とする。

一、奉職に関する任期四年制を改めて、長く同じ職に就任させるべきである。四年で交代させる制度も一理あるが、草創の初め、法や規律が全く整っていない中、急ぎアメリカの共和制を学ぼうとする時期にあっては、時と勢いというものを考えなくてはならない。法や制度が確立しているのであれば、人が代わることに問題はないが、中国では長年同じ職に就かせることを善としている。この際、長く同じ職に就かせる制度を定め、それに加えて勤務評価を導入し、昇任や降任の人事制度を作るべきである。

一、政治とは正である。人が正しくないことをすれば、それを正し、四民各々にその徳を享受させることを言う。政府の要路にある人は、公平至誠をもって人民に施し、一事の譎詐権謀を用いてはならない。

この他にも西郷は、「唯要路の人々は質僕に行い驕奢の風あるべからず(政府の要路にある人々は、質朴であるべきであり、驕り高ぶるような振る舞いをしてはならない)」とも建言していますが、これは前回書いた横山安武の「時弊十ヶ条」の精神にも繋がります。
横山の時弊十ヶ条の第一条には「輔相之大任ヲ始メ侈靡驕奢、上朝廷ヲ暗誘シ、下飢餓ヲ不察也」とあり、さらに第二条には「大小官員トモ、外ニハ虚飾ヲ張リ、内ニハ名利ヲ事トスル不少」とあるなど、横山は官吏の堕落した生活や態度を痛烈に批判していますが、西郷も鹿児島にあって同じように官吏の腐敗に胸を痛めていたことから、横山の精神を受け継ぎ、前述のような官吏改革案を岩倉に対して提示したのです。

また、西郷は次のような建言もしています。(同じく現代語訳版を掲載します)

一、郡県と封建の制度をなお評議すべきです。現状の形勢から観れば、封建の制度は長く行われるものではありません。その弊害は枚挙にいとまがありません。衆人・諸賢で熟議を行った上で、徐々にその制度を改めるべきです。

この西郷の建言は、いわゆる「廃藩置県」のことに言及しているものだと言えます。
西郷は後に旧士族たちを率いて西南戦争を起こしたことから、「封建制の巨魁」や「士族の頭領」といった形で、旧来の封建制度にこだわり、武士を擁護する立場でいたと論評する人が後を絶ちませんが、これは正当な評価であるとは言えません。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』において書きましたが、福澤諭吉はその著書『明治十年 丁丑公論』(『福澤全集』六所収)の中で、

「西郷が士族を重んずるは事実に疑なしと雖も、其気風を愛重するのみにして、封建世禄の旧套に恋々たる者に非ず。若し彼をして真実に封建世禄の友たらしめば、其初め徳川を倒すの時に己が数代恩顧の主人たる島津家を奉じて将軍たらしめん事を勉むべきなり。或は然らざれば、自ら封じて諸侯たらん事を求むべき筈なり。此を是れ勉めざるのみならず維新の後は却て島津家の首尾をも失ひ、且其参議たりし時は廃藩置県の大義にも与りて大に力ありしは世人の普く知る所ならずや」

と書いています。

福沢が論評しているとおり、西郷は武士の気風を愛する人ではありましたが、封建制に執着、未練を持つ人物では決してありません。
現にそれは、西郷自身が政府の首班の一人として廃藩置県を断行し、実際に封建の世を終わらせていることからも明らかですが、のちに西南戦争を起こしたというイメージが、西郷を旧士族を擁護する巨魁だという虚像を生み出したと言えるのではないでしょうか。

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【2018/10/29 19:44】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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