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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
(明治天皇の鹿児島行幸)
今回の『西郷どん』では、岩倉具視を特命全権大使とし、副使に木戸孝允、大久保利通、以下同行の留学生を合わせて百名を超える大使節団(岩倉使節団)が、アメリカ、ヨーロッパ諸国に向けて出発し、その留守を西郷が預かることになりました。
そして、ドラマ後半において、明治5(1872)年6月に実施された明治天皇の行幸に付き従い、鹿児島に帰国した西郷が、久光から叱責されるかと思いきや、最後はエールを送られるような演出がありましたが、明治に入ってからの二人の関係は、そのような甘いものでは決してありません。

『西郷どん』では、明治天皇の鹿児島行幸の際、西郷と久光が会って話をしていましたが、実際のところ、西郷は久光の元に機嫌伺いに出向きませんでした。
そのことがきっかけとなり、西郷は久光の怒りを買い、後に鹿児島まで呼び出され、十四ヶ条にも及ぶ詰問状を突きつけられています。
その詰問状内には、

一、御巡幸の節、供奉第一の高官として、御失徳のみ醸し成す心底如何(明治天皇の御巡幸の際、供奉した第一の高官として、失徳ばかりを呈したが、どのような気持ちでいるのか)(『西郷隆盛全集』五)

との文言がありますが、これは西郷が久光に挨拶に行かなかったため、このように書かれたのです。

そして、西郷はその久光の怒りを解くため、久光の執事宛てに自ら「詫び状」を書いて提出しています。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも、その詫び状の現代語訳版を載せましたが、次のとおりです。

「御巡幸の際に供を仰せ付けられて、鹿児島に滞在中、御機嫌伺いとして拝謁を願い出なければならないところ、おろそかにしてしまいました。朝廷の臣下であることに甘んじ、賜った再生の御恩(沖永良部島への遠島処分を赦されたこと)を忘却するようなことをし、嫌疑を被りましたこと、誠に恐れ入る次第でございます。どんなことをしても、その罪を謝罪いたすつもりでございますので、その旨お取り次ぎ願います」(『西郷隆盛全集』三)

このように、西郷はひたすら久光に対して謝罪の言葉を書き連ねていますが、内心は久光からの責め付けに呆れかえっていたようです。
明治5(1872)年12月1日付けで、西郷が黒田了介(のちの清隆)に宛てた書簡には、「私の罪状書御認め相成り居り候間、御詰問の次第何共言語に申し述べ難き事にて、むちゃの御論あきれ果て候事に御座候」とあり、西郷の本音が吐露されています。

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島津久光銅像(鹿児島市)

このような事実から考えても、今回の『西郷どん』のように、二人が打ち解け合う姿は、実際には無かったと言えますが、西郷を理解するうえで、久光との関係を正確に理解することはとても大切なことだと思いますので、今回は『西郷どん』では描かれなかった、西郷と久光の真の関係性について整理しておきたいと思います。

(西郷の帰国理由)
少しさかのぼりますが、明治に入ってからの西郷が新政府には出仕せず、国政とは距離を置く形で鹿児島に引きこもった原因は、実は久光とも深い関わりがあると言えます。
俗に「西郷は政治家として限界を感じていたため、大久保に後を任せて、鹿児島に帰国した」なとど言われ、『西郷どん』でも政治との関連性に触れられていましたが、西郷の帰国理由は、そんな単純なことでは決してありません。

明治後、西郷が鹿児島に帰国した理由は、大きく分けて主に二つ挙げられます。
一つは島津斉彬との関係に起因する、西郷の隠退志向です。
これについては、明治2(1869)年7月8日付けで、西郷が親友の桂右衛門(のちの久武)に宛てた書簡の中で、自身の心情を次のように告白しています。(重要な箇所を抜粋します)

「少弟身上の儀幾回も申し上げ候通り如何に讒口にもいたせ、一度賊臣の名を蒙り、獄中迄打ち込められ候に付き、其の儘朽ち果て候ては先君公へ申し訳これなく、一度国家の大節に臨み、賊臣の御疑惑を相晴らし候えば、泉下の君へ謁し奉り、口をつぐみ申す間敷と、是のみ相考え罷り在り候事に御座候。只是計りの思い込みにて御奉公仕り居り(中略)今日に至り候ては、獄中の賊臣、決して相忘れ候儀にては更にこれなく、雲霧を破り候得ば退いて謹慎仕るべき杜、先君の御鴻恩忘却仕らざる事と相明らめ居り候」(『西郷隆盛全集』三)」

大意を書くと、次のとおりです。

「たとえ讒言であったとは言え、一度賊臣の名を被り、獄中に入れられた身です。そのまま何もせず朽ち果ててしまっては、亡き先君・斉彬公へ申し訳が立ちません。国家の大事に臨んで、賊臣との疑惑を晴らすべく努力したならば、あの世で斉彬公に拝謁した際、口をつぐむことも無く、堂々とお目にかかれるのでは無いかと思い、そればかりを考えて、これまで奉公して参りました。今日に至っては、一度は獄中に入れられた賊臣であることを決して忘れるつもりはなく、雲霧を破って謹慎することこそが、斉彬公から頂戴した御鴻恩を忘れないことだと思っています」

これを読むと、斉彬という人物が西郷にとって特別な存在であったことがよく分かります。
斉彬は、下級藩士であった西郷を登用し、西郷が国士となって世に出るきっかけを作った人物であり、西郷にとっては、師であり、恩人であり、そして神とも崇め奉った存在でした。
そんな斉彬から大恩を受けた身でありながらも、遠島という、武士としては最も不名誉な罪を被ったことに対し、西郷は終生自らを恥じる意識を持っていたと言えます。
そのことが西郷の隠退志向を強めることに繋がり、西郷は倒幕戦が一段落した段階で、鹿児島に帰国しようと考えていたのです。

このような考えや気持ちは、西郷が書いた他の書簡でもいくつか出てきます。
例えば、慶応3(1867)年12月28日付けで、側役・蓑田伝兵衛に宛てた書簡には、

「当分は昼夜寸暇これなく、朝議は毎徹夜、中中難儀の次第に御座候。少し道が付き候わば御暇仕り候て罷り下りたく御座候得共、一向墓取り申さず、苦心此の事に御座候」(『西郷隆盛全集』二)

とあり、「今後の道筋がつけば、お暇を頂き、鹿児島に帰国したいと考えています」と、その真情を吐露していますが、これは「鳥羽・伏見の戦い」が生じる以前のことです。
また、慶応4(1868)年1月16日付け川口量次郎(雪篷)宛ての書簡にも、

「戦い相静まり候わば御暇願い出候て、もふ隠居と相決め居り申し候。実に人間役の御奉公は相叶い申さず、気後れのみにて如何共致し方御座なく候」(『西郷隆盛全集』二)

とあり、そこには西郷の揺るぎない隠退への決心が記されています。

このように、斉彬からの大恩に報いるということが、元治から慶応期にかけての西郷の活動源になっており、「倒幕」という、大きな一区切りがついた時点で、西郷は鹿児島に帰って隠退したいという素願を長年温めていたと言えるのです。

そして、二つ目の理由が、最も大事な島津久光との関係です。
西郷と久光に深い因縁と確執があったことは、これまで幾度となく書いてきたとおりですが、西郷が新政府への出仕を断ったのは、前述した斉彬への思いに加えて、久光との関係と深い関わりがあります。

そのことを解くヒントは、冒頭でも触れましたが、明治5(1872)年11月、久光が西郷に突きつけた「十四ヶ条の詰問状」にあります。
明治5(1872)年6月、明治天皇の鹿児島行幸の際、西郷は久光の元に機嫌伺いに出向かなかったことから、久光の怒りを買い、後に鹿児島まで呼び戻され、十四ヶ条にも及ぶ詰問状を突きつけられました。
久光はこの詰問状の中で、

一、右帰陳の節、京師に於いて朝官に任ぜらるべき御内命これある処、主人持の由にて御断り申し上げ、早々引き取り候趣、帰藩の上申し出、尤もの至りと存じ候処、右の意に違い、高位高官遠慮なく御受け申し上げ候心底如何

(現代語訳)
一、戊辰戦争から帰陣の際、京都において新政府の官吏に任命する内命があったが、主君が居るためと断り、早々に鹿児島に引き揚げ、その旨報告したことはもっともなことであるが、その意とは異なり、今や高位高官の職を遠慮なく受けているのはどういう心境でいるのか。

と、明治後の西郷の行動を厳しく批判していますが、これを見る限り、久光は西郷が新政府に出仕することを好ましく思っていなかったことが分かります。

遠島先の沖永良部島から帰還後の西郷は、常に久光の監視下に置かれ、久光の意向を損なわないよう、細心の注意を払いながら国事に携わってきましたが、明治後の西郷もまた、これまでと同様に、久光の意向を考慮し、久光に憚って、当初新政府への出仕を断ったのです。
事実、西郷は国政とは距離を取りながらも、明治2(1869)年2月、藩主・忠義に請われて、薩摩藩の参政に就任しており、薩摩藩政には関与する態度を見せています。
西郷が政治家としての限界を感じていたのであれば、藩政に携わることもなく、どこまでも隠居を貫いたでしょうが、西郷は久光の意向を遵守するため、その命に従ったのです。
戊辰戦争終結後、西郷が薩摩藩内の藩政改革には協力しながらも、新政府と一定の距離を置いたのは、新政府に出仕することで、久光から、またあらぬ嫌疑をかけられないようにするためでもあったと言えます。

このように、明治後の西郷が、これほどまでに久光に気を遣っていたのには、それ以前に大きな伏線があったと私は考えています。
少し時がさかのぼりますが、「鳥羽・伏見の戦い」後の慶応4(1868)年1月17日、薩摩藩主・島津忠義は、武家としては唯一、公家の仁和寺宮嘉彰親王岩倉具視と共に新政府の海陸軍務総督に任命されましたが、西郷は辞職を勧め、忠義はその翌日すぐに辞表を提出しています。
西郷関係の伝記類において、この西郷の行動は「薩摩に野心なし」を見せるため、つまり薩摩藩が天下を取るような野心が無いということを内外に示すためであったとされています。

例えば、近著から引くと、家近良樹『西郷隆盛』では、「薩摩藩内に在って、このような反薩摩感情の高まりに人一倍気をもみ、対応に苦慮したのは西郷であった」と、当時薩摩藩に対する反対勢力があったことに言及したうえで、西郷が忠義に海陸軍総督を辞退するよう説得したのは、「薩摩藩が新政府を操り、徳川の天下を奪おうとしているといった世人の猜疑を払拭するためであった」としています。

西郷が忠義に対し、海陸軍務総督を辞職するよう説得したことについては、慶応4(1868)年1月27日付け吉井幸輔宛て西郷書簡内に、「幸い、将軍の御辞表差し出され候て御仕合わせの事に候」(『西郷隆盛全集』二)とあるだけで、前述のような西郷の意図を正確に裏付けすることは出来ません。
しかしながら、当時の新政府内は決して一枚岩ではなく、諸藩は薩摩藩が持つ強大な武力に警戒する向きがあったことは間違いなく、西郷はあらぬ嫌疑をかけられることを憂慮し、率先して忠義に総督を辞任させたものと考えて良いと思います。
また、西郷はその後、慶応4(1868)年6月にも、忠義が薩摩藩兵を率いて東征に出陣しようとした際、忠義に対してそれを中止するよう説得し、忠義を連れて一緒に鹿児島に帰国していますが、これも前述した薩摩藩に野心があるという、根も葉もない噂を払拭するための一環として行われたことであったと思われます。

このように、当時の西郷は薩摩藩にかかる嫌疑を払拭することに躍起になっていたと言えますが、この一連の行動が、当時鹿児島に居た久光の不興を被ったと私は推測しています。
久光としては、忠義が朝廷から兵権を授けられるという、最高の栄誉と実権を手にしたにもかかわらず、西郷がそれを辞退するよう勧めたことに対し、面白からぬ感情を抱き、出しゃばった真似をしたと考えていたのではないでしょうか。

実際、久光の西郷に対する疑惑は、その後根強く続いていたと思われます。
明治3(1870)年8月3日付けで、西郷が大久保に宛てた手紙の追伸には、

「只一人にて御疑惑を積み、夫故御悪みも一人に止まり候次第に御座候。いずれ此の上は御疑惑を解き候か、又は斃れ候かの両様に相決し、毎日死を極め、今日限りと定め候て出勤仕り候(久光公からの疑惑は私だけに向けられ、それゆえ憎しみも私一人に留まっているような状況です。この上は、久光公が疑惑を解かれるか、それとも私が斃れるかのどちらかと決心し、毎日死を覚悟して、私の命も今日限りと思いながら出勤しています)」(『西郷隆盛全集』三)

との言葉があり、明治に入ってからの西郷と久光の関係、ひいては鹿児島における西郷の置かれていた状況が分かります。

以上のようなことから、明治初年の西郷は、久光に対して最大限に気を遣う必要があったため、西郷は久光に憚り、新政府への出仕を意識的に控えざるを得なかったと考えるべきです。
明治後、西郷が鹿児島に帰国したのは、政治家としての資質や政治能力の有無に、西郷自身が限界を感じていたからだということではなく、長年続く西郷と久光の確執に大きな原因があったと言えるのです。

(久光の鹿児島県令就任問題)
明治4(1871)年9月28日付けで、西郷が親友の桂四郎(のちの久武)に宛てた書簡には、次のような文言があります。

「副城公如何の御機嫌に御座候やと、恐れながら案労仕り居り申し候。(中略)誠に事々に付き、成されにくき御場合と、毎(いつも)もながら御無理千万、御互いに娑婆の難儀は引き受けに御座候わん」(『西郷隆盛全集』三)

桂久武は西郷が唯一心を許した親友とも言うべき人物であり、桂に宛てた書簡には、西郷の真情が吐露されたものが数多く見受けられます。
この書簡もまさにそれにあたり、西郷の本音が顕わになっています。この書簡にある「副城公」とは久光のことを指し、俗な言い方をすれば、西郷は桂に対して、「久光公の機嫌はどうですか? 恐れながら、いつも手がかかりますね。何事においても、無理なことばかりを求められ、お互いに苦労が絶えませんね」と、愚痴をこぼしているのです。

また、続いて西郷は「再生の時は、必ず美婦・美食をいたし、玉堂に安座すべしと、只先の世を楽しみに相考え候外、更に余念御座なく候」と書いていますが、これはつまり、「生まれ変わった時は、美しい妾と美食を並べて、お互いに世を楽しみましょう」と、冗談を述べていますが、西郷らしい諧謔と言えましょう。
ただ、そんな冗談の中にも、ある意味、西郷と久光の関係の悪さが、逆に読み取れるような気がします。

また、大久保がヨーロッパに外遊中だった頃の西郷書簡には、次のような文面もあります。
明治5(1872)年8月12日付けで、西郷がロンドンに滞在中の大久保に宛てた書簡の尚書きには、

「兵隊の破裂は恐ろしくもこれなく飛び込み候得共、副城の着発弾には何とも力及ばず大よわりにて御座候。御遙察下さるべく候」(『西郷隆盛全集』三)

とあり、西郷は「近衛兵の騒擾は恐ろしくもなく、一身にあたれば解決できますが、久光公が放つ着発弾に対しては、何とも力及ばず、大弱りの次第です。お察しください」と、ここでも本音を漏らしています。

明治後の久光の動きは、西郷にとって大きな悩みの種の一つであったことは間違いありません。
特に、今回の『西郷どん』でも描かれましたが、廃藩置県後に久光が「鹿児島県令に就任したい」と言ってきた時は、西郷も相当慌て驚いたようです。
明治5(1872)年1月4日付けで、西郷が桂四郎(のちの久武)に宛てた書簡には、

「扨大迫年内追い迫り着京致され候処、豈料らんや意外の御望み在らせられ候段、驚き入り候仕合いに御座候」(『西郷隆盛全集』三)

とあり、鹿児島県権大参事・大迫貞清の上京目的が、久光の鹿児島県令就任のためであったことを聞いた時の西郷の驚いた様子が分かります。
西郷は同書簡内で、「いまだ弐百余侯の内、ヶ様の儀申し立て相成り候処これなく」と、「未だかつて二百以上ある藩の藩主が、このような申し出をしてきたことはない」と前置きしたうえで、「何の訳もこれなく県令の御事、只あきれ果て候仕合い」と、何の理由もなく、県令になりたいと言ってきた久光に対し、ただ呆れ果てたとの感想を述べています。

また、西郷は同書簡の中で、

「殊に此の度廃藩の仕抹、全て薩長の振りはまり計りにて、外藩異議これなき趣に相聞かれ申し候。夫等の機合(おりあい)に御座候えば、御許容これなく共、世間に申し立ての儀広まり候ては、人心動揺を引き起し申すべき事眼前の仕合いに御座候(この度、廃藩置県が上手くいったのも、薩長両藩が率先して努力したからであって、それゆえ他藩から異議が出なかったのです。しかしながら、その当事者である薩摩藩から県令就任を希望したということが世間に広まっては、人心の動揺を引き起こすことは間違いありません)」

とも書いていますが、今回の『西郷どん』においても、西郷は似たようなセリフを吐いていました。

この久光の鹿児島県令就任問題については、明治5(1872)年2月15日付けで、西郷がアメリカに滞在中の大久保に宛てた書簡にも詳しく出てきますが、結局、西郷は公家の三条実美の力を借りて、その願い出を内々に取り下げるよう取り計らいました。
同大久保宛て書簡には「夫より条公へ内情委敷申し分け、何卒条公御手切れを以て御打ち挫き下され候処相願い」と、その時の内情が記されています。

このように、久光の鹿児島県令就任運動は、西郷以下、当時政府内に居た薩摩藩関係者を慌てさせたのですが、実は久光には過去にも前科があります。
前科というと、とても響きが悪いですが、久光は過去に薩摩藩主に就任しようと運動した前例があるのです。

時は10年前の文久2(1862)年までさかのぼります。
当時の久光は斉彬の遺志を受け継ぐ形で、薩摩から兵を率いて上京し、その後、江戸へと下って幕府に対して幕政改革を要求しましたが(文久の改革)、その際、薩摩藩の支藩とも言うべき佐土原藩主・島津忠寛を使って、薩摩藩主に就任する画策をしているのです。

これまで何度も書きましたが、薩摩藩内においては、久光は藩主・忠義の実父として国父の称号を得ていましたが、当時対外的には無位無官、幕府から見れば、単なる陪臣の身分に過ぎませんでした。
そのため、久光は江戸城に登城する資格も無かったことから、久光に代わり、忠寛が薩摩藩主の名代となり、幕閣等との折衝を行なったのですが、その忠寛が久光を薩摩藩主にするべく運動していたことが、越前藩士・中根雪江が書き記した『再夢紀事』の中に出てきます。
同書の文久2(1862)年7月26日の条に、

「七月廿六日今日御登城前御兼約にて島津淡路守殿へ御逢有之御内談之次第ハ當薩侯修理大夫殿幼年病身ニ付三郎殿當代に建度との修理大夫殿内願之由(7月26日、春嶽公が江戸城に登城する前、かねてからの約束で、島津淡路守忠寛殿とお会いになった。御内談の内容は、薩摩藩主・島津修理大夫忠義殿は幼年で、かつ病身でもあるため、三郎殿(久光のこと)を当主に立てたいと、忠義殿からの内願があった由)」

とあり、中根の記述によると、久光の薩摩藩主就任運動は、子の忠義の内願となっていますが、忠義が久光に内緒でそのようなことを進めるはずがありません。また、支藩の忠寛においても、なおさらそうです。この運動の陰には、久光の意向があったことは間違いないと思います。

ただ、忠寛からこの話を聞いた松平春嶽は、「倫理戻り候故御不同意之趣(倫理にもとる行為であるゆえ同意しない)」と答えたと『再夢紀事』にあります。
春嶽としては、自分の子供を廃し、父親自らが藩主に就任しようということに対し、嫌悪感を持ったのでしょう。

『再夢紀事』によると、結局この薩摩藩主就任運動は、のちに久光が知ることとなり、「嫡子を指置相続杯と思ひもよらすと大ニ不興にて叱られ」(8月8日の条)たため、取り下げられたとなっていますが、前述のとおり、久光当人が知らないはずは無かったものと思われます。

ただ、久光のことを考えれば、同情すべき点は多々あります。
久光は薩摩藩10代藩主・島津斉興の第五子として生まれましたが、幼少期には家臣の種子島家へと養子にやられ、その後は本家に戻り、一門の重富島津家の当主になりましたが、それでも所詮は臣籍です。
その後、薩摩藩内では国父と称されて、巨大な権力を握りましたが、ひと度藩外に出れば、無位無官の陪臣に過ぎなかったことから、久光自身がいくら国事を周旋しようとする志に燃えていたとしても、色々なしきたりや制約がつきまとい、それに拒まれることが多かったに違いありません。
そのことは、久光に対して、大きなコンプレックスを植え付けたと言えるのではないでしょうか。
しかしながら、この文久2(1862)年の薩摩藩主就任運動と明治5(1872)年の鹿児島県令就任運動をリンクさせるのは、いかにも小説的であると言えます。
久光の鹿児島県令就任運動は、廃藩置県を断行した新政府に対する一種の抵抗策であったと言えるのではないでしょうか。

冒頭にも記しましたが、今回の『西郷どん』では、政府改革が上手くいかないことに弱音を吐く西郷に対して、久光が「やっせんぼ!」と言って、叱咤激励する様子が描かれましたが、これまで書いてきたように、西郷と久光の関係は、そのような甘いものではなく、終生二人は相容れることが無かったと言えます。
以前、久光が西郷のことを「彼れは謀反をする奴ぢゃ、到底薬鍋をかけて死ぬ奴ではない」と評したと、史談会速記録から引用したことがありますが、その久光の疑いは終生続いていたと言えるのです。


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【2018/11/06 17:29】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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スコたま
ちょいちょいブログ拝見しております。

世はうつり明治の世にあって、久光と西郷の関係などはまったくの私事。もはや万民の幸福とは関係ありません。それに拘泥・振り回される自分は政治家には向いちょらん、おいは一蔵のようにゃ成れん・・と西郷が考えたであろうことは容易に想像がつきます。
大久保は人に憎まれ、畢竟、鹿児島に戻れなくなる事など「当然」と覚悟しました。かたや故郷を愛し、後輩や市井の人々に愛されることも存在証明の壱つとなっていた西郷にそれは無理な事でした・・死して140年余経っても「西郷さん、西郷さん」と親しみをもって語られるのはそうした“人間的な不完全さ・弱さ”に人々はシンパシーを感じてのことではないでしょうか。その点は究極の政治家大久保と対極ですね。

(大久保は大久保で、時代に要求されたために仕方なく<究極>を演じざるを得なかった・・のだと思いますが。)

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世はうつり明治の世にあって、久光と西郷の関係などはまったくの私事。もはや万民の幸福とは関係ありません。それに拘泥・振り回される自分は政治家には向いちょらん、おいは一蔵のようにゃ成れん・・と西郷が考えたであろうことは容易に想像がつきます。
大久保は人に憎まれ、畢竟、鹿児島に戻れなくなる事など「当然」と覚悟しました。かたや故郷を愛し、後輩や市井の人々に愛されることも存在証明の壱つとなっていた西郷にそれは無理な事でした・・死して140年余経っても「西郷さん、西郷さん」と親しみをもって語られるのはそうした“人間的な不完全さ・弱さ”に人々はシンパシーを感じてのことではないでしょうか。その点は究極の政治家大久保と対極ですね。

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2018/11/07(Wed) 14:53 | URL  | スコたま #-[ 編集]
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