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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
今回の『西郷どん』では、西郷と大久保の対立が描かれました。
アメリカ・ヨーロッパ諸国を巡る長期の外遊から帰国した大久保は、肥前や土佐藩の連中に牛耳られた政府の現状を目の当たりにして憤りを覚え、その不満を西郷に対してぶつけましたが、逆に西郷からたしなめられたことにより、二人の間に言い争いが起こり、そして二人は袂を分かちました。
しかしながら、大久保が帰朝してから西郷と大久保が直接対決するまでには紆余曲折があり、あのような言い争い一つで二人の仲が決裂した訳ではなく、二人の対立原因を少し簡単に描きすぎたのではないかと感じました。
ドラマの残り回数も少ないことから、大久保の揺れる想いを描くには時間が無かったのでしょうが、大久保が急に悪人に変貌したかのような演出は、少し行き過ぎであったような気がします。

大久保に関して言えば、このような描き方をするので、いつまで経っても「西郷を好きな人は大久保が嫌い」になり、そして「大久保が好きな人は西郷を嫌い」になってしまうのです。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』においても書きましたが、西郷と大久保の未来を考え、これから二人の正確な関係を検証していくためにも、影響力の強い大河ドラマにおいて、あのような演出を行うことは、正直避けて欲しかったと感じてなりません。

(大久保の一時帰国)
大久保が外遊から帰国したのは、明治6(1873)年5月26日のことです。
大久保は同年4月13日にフランスのマルセイユを出発し、5月26日の夜に横浜港に到着しました。
『大久保利通文書』四には、大久保が三条実美宛てに提出した帰国の届出書が収録されており、そこには「私儀為特命全権副使欧米各國へ派出罷在候處、昨夜帰朝致候、此段御届申候」とあります。

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大久保利通銅像(鹿児島市)

しかしながら、大久保は、実はそれ以前にも一度日本に帰国しています。
『西郷どん』では全く描かれませんでしたが、明治5(1872)年2月12日、当時アメリカのワシントンに滞在していた大久保は、条約改正のために必要な日本国政府の全権委任状を取りに帰るため、日本に向けて一時帰国しているのです。
勝田孫弥『大久保利通伝』には、その事情について、次のように書かれています。

「抑も全権大使の目的は、欧米各國を訪問して、其制度、文物、風俗等を視察し、条約改正の準備及方法を調査研究するにありき、然るに、弁務使森有礼は、岩倉、利通等に建論して、此機会に条約改正を決行することの我国に利益あるを主張したり、米國々務卿フィシュもまた条約改正の準備に止まらす、此機会に其条件を議決するに如かずと注意し、大統領グランドに告けて曰く、寧ろ改正を結了せよと、岩倉等は其懇切なるに感じ、愈談判に着手すべしと決したり、然るに、大使等は条約改正に関する全権の委任状を所持せさりしより、利通は伊藤と共に帰朝して、更に廟議を定め、其の委員状を得て、再ひ度航すべきに決定し、五年二月十二日、利通は伊藤と共に、ワシントン府を發して帰朝の途に上れり」

元々、岩倉使節団の目的は、条約改正のための下準備(下交渉)に留まっていたのですが、『大久保利通伝』の記述にあるように、当時アメリカの少弁務使であった元薩摩藩士・森有礼アメリカ国務長官のハミルトン・フィシュが、条約改正交渉をした方が良いのではないかと勧めたことにより、岩倉たちは大いに期待感を持ちました。
アメリカにおける盛大な歓迎ぶりを目の当たりした岩倉使節団一行は、アメリカがこのような友好的な態度であれば、本格的に条約改正まで持って行けるのではないかと過信したとも言えます。
しかしながら、前述のとおり、岩倉使節団の目的は、条約改正の本交渉ではなかったため、彼らは条約改正交渉に必要な日本国政府の全権委任状を持参して来ていませんでした。
そのため、大久保は伊藤博文と共にアメリカを離れ、約一ヶ月間かけて、全権委任状を取りに日本に一時帰国したのです。

以上のような理由で、大久保と伊藤が東京に帰り着いたのは、明治5(1872)年3月24日のことでしたが、二人を待ち受けていたのは非難の嵐でした。
前述のとおり、岩倉使節団の目的は、条約改正のためではなかったことから、交渉着手は時期尚早だとして、批判的な意見が噴出しました。条約締結国の状況等を正確に把握しないまま、条約改正交渉に入ることは、拙速に過ぎるという論調が多勢を占めていたのです。
実際、『大久保利通伝』によれば、大久保と伊藤が全権委任状を日本に取りに帰ったと知った、当時イギリスに留学していた日本の留学生たちは、「世界の大勢に通せず、各国の形勢を知らずして、何を以て条約改正の大事を成就することを得んや」と、大使一行に反対意見を述べるため、わざわざ留学生の代表として尾崎三良らが渡米し、ワシントンに滞在していた木戸孝允にその旨注意したとあります。

このように、帰国した大久保を取り巻く情勢は大変厳しいものでしたが、大久保は八方手を尽くし、ようやく全権委任状を手にして、同年5月17日、再びワシントンへと向かいましたが、そんな大久保を待ち受けていたのは、非情にも条約改正交渉の中止という現実でした。
『大久保利通伝』には、

「当時、欧州各國は言を俟たず、米國政府も条約改正の談判は、東京に於て開かんことを希望し、また、大使一行も國別に談判を開くことの不利なるを覚りしより、遂に之を中止するに確定したり」

とあります。
このように、結局大久保の一時帰国は、何の意味も持たない行為となってしまいました。大久保が自らの外遊を「大敗北」と自嘲したのは、この苦い経験が一因となっていることは想像に難くありません。

(大久保帰朝後の西郷と大久保)
西郷の書簡を収録した『西郷隆盛全集』には、外遊中の大久保に宛てた西郷書簡が二通収録されていますが、明治5(1872)年2月15日付けで書かれた書簡については、当時の二人がとても良好な関係にあったことが分かるものです。
西郷は同書簡の中で、次のように書いています。

「貴兄御一人は数千万の人民目的にいたし居り候間、全国を引き起すべき処能々御注意下され、御帰朝を相待ち居り申し候」(『西郷隆盛全集』三)

つまり、「貴方は日本国民数千万人が頼りにし、日本を振興すべき人物であることをよくよくご留意ください。貴方の帰国をお待ちしています」と、西郷は大久保に対して書き送っているのです。
西郷の大久保に対する多大な信頼感が溢れている文面であると言えましょう。

また、一方外遊中の大久保が同じく明治5(1872)年に西郷に対して送った書簡には、次のような言葉があります。

「爾来御地之模様いかかの事に候や、萬端御厚配不一方と遙察仕候、御國の形情を熟思仕候に小ことなしに成る事は幾許の星霜を経不申候ては所詮六(むつ)かしと愚考仕候、就ては是非老兄御擔當不被下候ては相済不申候間、一層御勉励奉伏願候」(『大久保利通文書』四)

後半部分の「就ては」以降に色濃く表れていますが、大久保は西郷に対して、「貴方が一身に引き受けて下さらなければ政府は立ちゆかない。これまで以上に勉め励んでくださるよう、伏してお願いします」との趣旨を述べています。
この書簡の内容を見る限り、大久保自身にも西郷に対する信頼感が込められていると言えますので、大久保が外遊中の二人の関係はとても良好なものであったと言えます。

では、いつ頃から二人の関係に亀裂が入るようになったのかを考えると、その辺りの史料が希薄なため、その時期を特定するのは甚だ難しいと言えます。
ただ、今回の『西郷どん』で描かれたように、大久保の帰国直後に二人の関係があそこまで悪化したとは考えにくいです。

例えば、大久保が帰国した約10日後の明治6(1873)年6月8日付けで、大久保は西郷の弟・従道宛てに書簡を送っていますが、この書簡は西郷兄弟の間に何らかのいさかいが生じたことことを大久保が心配し、従道に対して、早々に兄・隆盛に対して謝りに行くよう諭したものです。
大久保は従道に対して、「貴兄御出赤心ヲ以御謝罪有之候方可然」「御賢兄氷釋相成まてハ屏身低頭何ク迄も誠心を表して御誤り被成度候」と書いており、従道から兄・隆盛に謝罪させることで、二人の仲を取り持とうとしていることが分かります。
当時の大久保がこのような立ち位置にあったのだとすれば、この時点においては、西郷との関係はまだ悪くなかったものと考えられます。

『大久保利通伝』によると、

「初め、利通が欧州より帰着するや、西郷は利通の邸に到ること頻繁にして、交情の親厚なること従前と毫も異なる所なかりき、然るに、時日を経過するに従ひ、次第に其度数を減したりと云ふ、蓋西郷は、利通の胸中に、到底征韓論を賛成すべき意思なきを覚りて、早晩政見の衝突あるべきを預知し、心中豁然たる能はざるものありしに由るならむ」

とあり、二人は征韓論を巡り、次第に疎遠になったと書かれています。

前述のとおり、大久保が外遊中の二人の関係はすこぶる良好であったことは間違いありませんが、その後、その二人が疎遠となったのは、『大久保利通伝』にあるように、当時西郷が執心していた朝鮮への渡航問題に原因があったと考えるのは、ごく自然なことではないかと思います。
大久保が帰朝して以後、西郷と大久保の往復書簡は一通も残されていないことから察すると、遣韓大使派遣問題を巡って、二人の関係に何らかの亀裂が入ったことは間違いないと思われます。
おそらく西郷は、大久保の元に足繁く通い、自身の朝鮮渡航にかける熱意を語ったのでしょうが、大久保の反応がイマイチだったので、自然と足が遠のく結果となったのではないでしょうか。

しかしながら、大久保が西郷の朝鮮渡航に対して、全面的に批判したということも無かったような気がします。
後述しますが、大久保は岩倉から西郷と対決させるため参議就任を打診された際、それを何度も断っている事実があることから考えると、あくまでも推測ですが、大久保は西郷の意見に対して、当初は強く反論しなかったのではないでしょうか。大久保が余り乗り気な態度を見せなかったため、西郷は大久保に話すことを次第に遠慮するようになったのかもしれません。

ただ、今回の『西郷どん』でも描かれたように、大久保が当時の政府に対して大きな不満を抱いていたのは確かです。
明治6(1873)年8月15日付けで、大久保がヨーロッパに留学中であった村田新八と大山巌に対して送った書簡には、「當方之形光ハ追々御傳聞も可有之、實ニ致様もナキ次第ニ立至」(『大久保利通文書』五)とあり、また、「國家ノ事一時ノ憤発力ニテ暴挙イタシ愉快ヲ唱ヘル様ナルコトニテ、決テ可成譯ナシ」と書かれてあることから、大久保が当時の政府や政情に不満を持っていたことが分かります。
しかしながら、大久保自身は同書簡の中で、

「小子帰朝イタシ候テモ、所謂蚊背負山之類ニテ不知所作、今日迄荏苒一同手ノ揃ヲ待居候、假令有為之志アリトイヘトモ、此際ニ臨ミ蜘蛛之捲キ合ヲヤッタトテ寸益モナシ愚存モ有之、泰然トシテ傍観仕候」

と、自らの進退について語っています。
大久保は前半部分において、「自分が帰朝しても、微力なのでどうすることも出来ない」と前置きしながらも、「今日までいたずらに時を過ごしてきたのは、一同(岩倉使節団の面々)が帰ってくるのを待っていたからだ」と、挽回の機会をうかがっているような言葉を使用しています。
また、「たとえ有為の志があると言っても、蜘蛛の糸を巻きあうような真似は有益ではない」とも述べ、現在は「泰然として傍観しているのだ」と、自らを戒めるような言葉を使っています。
ここに言う「蜘蛛の糸の巻きあい」とは、江藤新平や後藤象二郎といった、肥前、土佐閥の連中との駆け引き、つまり「主導権(政権)の奪い合い」を指していると言えるでしょう。
実際、この書簡を書いた翌日の8月16日、大久保はこの年に制定された夏季休暇の制度を利用して東京を離れ、観光旅行に出かけています。大久保は9月21日までの約一ヶ月間、箱根、富士山、近江、大和紀伊の名勝旧蹟を悠々自適に旅しているのです。
これは前述の大久保書簡にある「泰然トシテ傍観仕候」を実行に移したものであると言えましょう。

ただ、では大久保が西郷が主張する遣韓大使派遣論に反対するべく、機会を伺っていたのかと考えると、必ずしもそうではなかったように思います。
前述の村田・大山宛て大久保書簡に書かれてある言葉は、西郷に対して向けられたものではなく、西郷を取り巻く連中(肥前、土佐閥)に向けて書かれたものであると私は解釈するからです。

東京に帰ってきた大久保は、9月13日にようやく日本に帰国した岩倉から参議への就任を打診されましたが、26日にそれを断る書簡を送っています。
また、大久保は30日にも岩倉に対して書簡を送り、自分を頼りにするのではなく木戸を中心にして考えて欲しいと意見を述べています。

以上のように、大久保が何度も参議への就任を辞退した理由は、当時在京していた島津久光に憚ることがあったからだと言われますが、やはり直接的な原因は、西郷と全面対決することを回避しようとしたのだと思います。
この時点においては、まだ大久保の心中には、西郷と袂を分かつ決心はまだ付いていなかったと思うのです。
しかしながら、前述のとおり、大久保は政府に対する根本的な不満を持っていましたから、最終的に参議就任を決断します。これが明治6(1873)年10月10日のことですから、大久保は日本に帰国してから約四ヶ月半もの間、西郷と対立することを躊躇していたと言えるのです。この月日をもってしても、当時の大久保がいかに西郷との対決を迷っていたのかが分かるのではないでしょうか。

そして、大久保は参議に就任するにあたり、家族宛てに遺書まで認めています。
大久保はこの遺書の中で、

「今般参議之拝命いたし實以恐惶至極之仕合ニ候、全體此度ハ深慮有之何く迄も辞退之決心ニ候得共(中略)断然當職拜命此難ニ斃れて以て無量之天恩ニ報答奉らんと一決いたし候」(『大久保利通文書』五)

と、参議に就任した覚悟を述べ、遺される家族に対して、

「只企望する處、小子か憂國之微志を貫徹して各憤發勉強心を正し、知見を開き、有用之人物となりて國之為ニ盡力して、小子か餘罪を補ひ候様心懸可被申候」

と、自らの志を継いで国のために有用な人材になるように言い残しています。
これは遺される息子たちに向けた言葉であったと言えます。実際、この遺書の中には、彦之進(のちの利和)伸熊(のちの牧野伸顕)といった名前が出てきます。

このような覚悟と決意を秘めて、大久保は西郷と対決すべく、明治6(1873)年10月14日に開かれた太政官の閣議に出席することになるのですが、ただ、大久保が西郷と対立することを望まなかったのは、いわゆる竹馬の友との「友情」という点からではなく、西郷と対立することで、より政情が混乱することを避けたかったからのように思います。
大久保は西郷の性格を熟知しています。西郷が征韓論争に敗れれば、必ず辞職して鹿児島に帰ることになることを大久保は見越していたと思いますし、また、西郷を慕う近衛兵以下陸軍の将兵たちが、その処置を不満に思って暴挙に出ることも予想されましたので、大久保としては、それらを危惧せざるを得なかったのではないでしょうか。
また、当時は政府の政策にことごとく反対の意を唱えている島津久光も東京に居る状態でしたから、なおさらその思いが強かったと言えます。
政権を奪取することは、西郷を切り捨てることにも繋がるため、大久保は最後の最後まで、自らが立ち上がることを躊躇したように私は感じてならないのです。

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【2018/11/14 19:45】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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粒山様

先週末、鹿児島での講演会お疲れ様でした。

『維新を創った男 西郷隆盛の実像』を再読して講演会に参加したので、著書に対する補足的な説明も有り、楽しく又興味深く拝聴させて頂きました。

大河ドラマ「西郷どん」ですが、やはり大久保利通と島津久光が誤解を招くような描かれ方をしています。
次回、鹿児島にて講演会の際には是非「大久保利通と島津久光」の幕末期~維新期のお話を西郷を含めた三者の「それぞれお互いの立場、置かれている立場」を粒山様の視点でお聞かせいただければと思います。

島津久光は外様(の分際で)でしかも大名ではないのに、徳川や譜代の名のある大名たちと対等に渡り合えた事(又は渡り合おうとした)は奇跡だと思います。

先日はありがとうございました
粒山 樹
zampanogelsomina様

こんにちは。
先日の鹿児島の講演会にお越し下さったのですね。
本当にありがとうございます。
当日は思っていた以上に上手く話すことが出来ず、大変失礼いたしました。
(人前で話すのは得意だったのですが、なかなか歴史的な話になりますと難しいですね……)

おっしゃるとおり、『西郷どん』における久光と大久保の描き方は私も不満に思っています。
西郷が主役ですので、彼を持ち上げるのは致し方ないにせよ、他者の評価を落とすのはいかがなものかと残念でなりません。
また機会がございましたら、是非その辺りの話もさせて頂ければと思っております。

この度は本当にありがとうございました。

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粒山様

先週末、鹿児島での講演会お疲れ様でした。

『維新を創った男 西郷隆盛の実像』を再読して講演会に参加したので、著書に対する補足的な説明も有り、楽しく又興味深く拝聴させて頂きました。

大河ドラマ「西郷どん」ですが、やはり大久保利通と島津久光が誤解を招くような描かれ方をしています。
次回、鹿児島にて講演会の際には是非「大久保利通と島津久光」の幕末期~維新期のお話を西郷を含めた三者の「それぞれお互いの立場、置かれている立場」を粒山様の視点でお聞かせいただければと思います。

島津久光は外様(の分際で)でしかも大名ではないのに、徳川や譜代の名のある大名たちと対等に渡り合えた事(又は渡り合おうとした)は奇跡だと思います。
2018/11/15(Thu) 21:47 | URL  | zampanogelsomina #3pGIr8b2[ 編集]
先日はありがとうございました
zampanogelsomina様

こんにちは。
先日の鹿児島の講演会にお越し下さったのですね。
本当にありがとうございます。
当日は思っていた以上に上手く話すことが出来ず、大変失礼いたしました。
(人前で話すのは得意だったのですが、なかなか歴史的な話になりますと難しいですね……)

おっしゃるとおり、『西郷どん』における久光と大久保の描き方は私も不満に思っています。
西郷が主役ですので、彼を持ち上げるのは致し方ないにせよ、他者の評価を落とすのはいかがなものかと残念でなりません。
また機会がございましたら、是非その辺りの話もさせて頂ければと思っております。

この度は本当にありがとうございました。
2018/11/16(Fri) 12:34 | URL  | 粒山 樹 #dM3/T6EU[ 編集]
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