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(西郷と大山綱良)
今回の『西郷どん』では、西郷は再び鹿児島に帰って隠遁生活に入りました。
そんな西郷を慕い、東京から続々と将兵たちが鹿児島に帰郷したことから、西郷は鹿児島県令の大山綱良(前名・格之助)の協力を得て、彼らの受け皿として「私学校」を創設しました。

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私学校跡(鹿児島市)

『西郷どん』では、西郷と大山が良好な関係で結びついていたかのような描き方をされていますが、実際、西郷の大山に対する評価は大変厳しいものがありました。
明治6(1873)年6月29日付けで、西郷が母方の叔父である椎原与右衛門に宛てた書簡には、大山について、

「此の格州の振る舞い実に驚き入り候仕合い、銭の金のと申す事計り、全く商人肌合いに成り切り居られ、(中略)、只自分の面計りを能くいたし候軽薄なものに陥り候故、皆々人望を失し、当時は盗犬の如くひろひろいたし居られ候体、見苦敷次第」(『西郷隆盛全集』三』)

と書かれています。
「銭の金のと申す事計り」「只自分の面計りを能くいたし候軽薄なもの」という辺りに西郷の大山観が分かるのではないでしょうか。
特に、後半部分の「盗犬の如くひろひろいたし」とは、全集の注釈によると、「盗犬のように、痩せてぎょろぎょろ落ち着きのないさま」という意味だそうです。
大山の容姿を含めて罵倒していることから察しても、西郷の大山に対する嫌悪感が読み取れます。

また、明治6年4月19日に大山が鹿児島県参事から鹿児島県権令に昇進したことについて、西郷は同年5月17日付け桂四郎(久武)宛て書簡の中で「余程巧みこれある向きに相聞かれ申すべく候」と書き、また、「又奥深く相考え候得ば、県庁の権威を以て人数を纏め、一仕事を巧み候や相分からず候」と、大山が県庁の権力等を利用して何か企んでいるのではないかと書いています。
以上のような西郷書簡からも、二人の関係性が分かるのではないでしょうか。

西郷という人物は、元々人の好き嫌いがはっきりしている人です。
特に、西郷自身が金銭に無頓着な人物であったことから、商人のような活動をしている人を嫌っていたようで、例えば、大阪の産業界に多大な功績を残した五代才助(のちの友厚)のことを「利のみの人間」と書いているほか(明治2(1869)年12月27日付け、桂四郎(久武)宛て書簡)、膨大な薩摩藩史料の編纂に尽くした市来四郎にいたっては「山師」呼ばわりし(明治4(1871)年12月11日付け、桂四郎(久武)宛て書簡)、はたまた、一番最初の妻・スガの弟である伊集院兼寛のことを面の皮が厚いという意味で「ダッキョウ先生」と比喩したりしています(明治7(1874)年8月31日付け、篠原冬一郎(国幹)宛て書簡)。
西郷という人物は、『西郷どん』で描かれているように、とても温和で、清濁併せ飲む優しい人物というイメージが定着していますが、確かにそのような一面もあったのでしょうが、元来猜疑心の強い人物であったと思われます。

話を戻して大山のことですが、大山という人物は、県令という鹿児島県では最上位の官職に就いていながらも、西郷という巨大な存在が在野におり、なおかつ旧主の忠義や久光が依然として県内で勢力を保っていたことから、両者に多大な気を遣わなければならない状況に置かれていました。その在職中は大変苦労したものと思われます。
特に、西郷が下野してから西南戦争に至るまでの間、鹿児島県庁はまさに私学校県庁であったと言えるほど、私学校の関係者で重職が占められていましたので、思わぬ所から突き上げを食うようなことも多かったに違いありません。
明治10(1877)年に生じた西南戦争において、大山は鹿児島県をあげて薩軍を支援する立場を取りましたが、それは大山の本意では無かったと言えるかもしれません。
大山は西南戦争後に長崎で斬首に処せられますが、以上のような点から考えれば、大変悲劇的な人物であったと言えましょう。

(下野後の西郷)
鹿児島に帰郷した西郷は、政治から離れたところに身を置き、まるで農夫のような生活を始めたことから、下野後の西郷は完全に隠退するつもりであったというのが一般的な解釈ですが、私はそれに懐疑的です。
確かに、下野直後の西郷は、再び復帰するつもりは無いとの意向を誰あろう久光に対して伝えています。
明治7(1874)年2月22日、西郷はその前々日の20日に鹿児島に帰国した久光に拝謁していますが、次のように語ったと『玉里島津家史料』にあります。

「朝命ノ重キヲ奉シ、旧君病苦ヲ侵シ、遠ク来テ臣ニ諭スニ誠ヲ以テス、臣恐懼ニ堪ス、冷汗背ニ洽敢テ出ル所ヲ不知、然リト雖ヲ奉スルヤ、臣カ心事実ニ安カラサルモノアリ、如何トナレハ臣職ヲ辞スルノ際、国家事臣カ所見ヲ以テ献言スルモノ再三、廟議終ニ臣カ所見ヲ採ラス、故ニ職ヲ辞テ県ニ帰ル、臣再ヒ出ルモ方今ノ事臣カ所見ト相反ス、若シ朝廷臣カ前議ヲ用ンニハ実ニ政令朝出暮改、何ヲ以テ信ヲ天下ニ示サン、今日ニ至テ臣敢テ国家ヲ維持スルノ策ナシ、国難ニ当テ唯一死アルノミ、臣決テ非ヲ逐ルニアラス、仰願ハ臣カ心情憐察ヲモ給ハン」(「久光公ヨリ西郷隆盛ヘノ説諭」『鹿児島県史料 玉里島津家史料』七)

この記述を見る限り、当時の西郷には再び上京して政治に携わる気持ちは無かったように考えられます。

「臣再ヒ出ルモ方今ノ事臣カ所見ト相反ス、若シ朝廷臣カ前議ヲ用ンニハ実ニ政令朝出暮改、何ヲ以テ信ヲ天下ニ示サン、今日ニ至テ臣敢テ国家ヲ維持スルノ策ナシ(私が再び政府に出仕しても、現在の政策と私の所見は相反しており、もし朝廷が、私が以前唱えた議を採用することになれば、それは朝令暮改となり、何をもって事の信義を天下に示すことが出来ましょうか。今日に至っては、私に国家を維持するような策はありません)」

という部分にその気持ちが表れていますが、ただ、西郷の生涯を俯瞰すれば分かるように、西郷の人生とは挫折と再起の繰り返しであり、西郷は挫折を味わう毎に、前述のように必ず隠退の意向を示しますが、最終的には必ず再び起ち上がっています。
その理由については、亡き先君・斉彬との関係などいくつかの理由があげられますが、特に明治4(1871)年1月、鹿児島に引っ込んでいた西郷が、大久保からの要請を受けて再び上京することを決心したのは、西郷が政府改革の必要性を強く感じていたことに起因します。

明治維新以後の政府に関して、西郷が大いに不満を抱いていたであろうことは、旧庄内藩士らが編纂した『南洲翁遺訓』を読めば明らかです。

「草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服を文り、美妾を抱え、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今となりては戊辰の義戦も、偏に私を営みたる姿になり行き、天下に対し、戦死者に対して面目なきぞとて、頻りに涙を催されける」(『西郷隆盛全集』四)

この遺訓には、明治維新以後、西郷が抱き続けてきた苦悩と不満が表現されていると言えます。特に「天下に対し、戦死者に対して面目なきぞとて、頻りに涙を催されける」という部分に、その気持ちが凝縮されていると言えましょう。

明治3(1870)年閏10月22日付けで、西郷の弟・信吾(のちの従道)が大久保と吉井幸輔に宛てた書簡には、西郷が信吾から政府の現状を聞き、「落涙ニ相及候」(『大久保利通文書』四)とありますが、信吾から政府の問題点や腐敗ぶりを直接聞かされた西郷が、涙を流すほど大いに嘆き悲しんだことから考えると、明治4(1871)年1月に西郷が憤然として再び起ち上がったのは、明治政府の立て直しを行うために他ならなかったと考えられます。

このように明治維新以後、政府改革の必要性を強く感じていたであろう西郷が、征韓論争という政変に敗れたとは言え、「もう下野した俺には無関係だ」とばかりに黙視し、自分一人だけが俗世を離れたところで安寧な生活を得ようとしていたとは、私には到底考えられません。
前述した久光に対する応答内でも、西郷は「国難ニ当テ唯一死アルノミ」と語っているとおり、前回の死生観の話にも通じますが、国難にあたり死を賭して起ち上がる覚悟を下野後も持っていたものと考えられます。

しかしながら、西郷の決起のタイミングが、いわゆる西南戦争が生じた明治10(1877)年であったかと考えると、それは西郷の目論見とは大いに異なっていたことでしょう。
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』においても書きましたが、西郷は「佐賀の乱」を始めとする、旧士族たちの反乱が雪崩式に生じ、政府への不平不満が頂点へと達した時、何らかの行動を起こすつもりであったとは思いますが、私学校生徒があのような形で暴発することで挙兵に追い込まれるものとは予想していなかったに違いありません。

ただ、私学校生の暴発に関して言えば、西郷にもその責任は大いにあったと言えます。
西郷は私学校の運営を篠原国幹や村田新八らに全て任せ、自らが直接関わるようなことはしませんでした。
村田新八が鹿児島の現状を「恰も四斗樽に水を盛り、腐縄を以て之を纏ひたるが如し、遂に破裂すべきは自然の數なり」(『大久保利通伝』下)と表現したことはとても有名な逸話として残っていますが、村田の言うとおり、私学校生徒たちが暴発寸前であったとしたならば、西郷が厳しく私学校を監督するべきであったのです。
少し厳しい言い方をすれば、西郷は若者たちが血気にはやって暴発しないよう、管理・監督する義務を怠ったのです。
西南戦争の原因を西郷一人に被せることに懐疑的な見方もあるでしょうが、私学校生徒の暴発は、ある意味、西郷の怠慢により、必然的に生じたものであったと言えるのではないでしょうか。


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【2018/11/26 19:14】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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由美
こんばんは
毎週楽しみに拝見しています

粒山さんのご本が学校の小さい図書室にも配架されているのを見つけまして、すぐ借りて早速読んでいます
詳しく丁寧に書かれていて、わかりやすく読みやすく、今夜中に一気読みするかもしれません

ありがとうございます
粒山 樹
由美さま

はじめまして、こんにちは。
拙ブログにつきまして、毎週お読み頂いているとのこと、本当にありがとうございます。

また、拙著もお借り頂いたようで、併せてありがとうございます。
情熱だけは込めて書きましたので、楽しくお読み頂けると嬉しいです。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

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この記事へのコメント
こんばんは
毎週楽しみに拝見しています

粒山さんのご本が学校の小さい図書室にも配架されているのを見つけまして、すぐ借りて早速読んでいます
詳しく丁寧に書かれていて、わかりやすく読みやすく、今夜中に一気読みするかもしれません
2018/11/30(Fri) 19:46 | URL  | 由美 #-[ 編集]
ありがとうございます
由美さま

はじめまして、こんにちは。
拙ブログにつきまして、毎週お読み頂いているとのこと、本当にありがとうございます。

また、拙著もお借り頂いたようで、併せてありがとうございます。
情熱だけは込めて書きましたので、楽しくお読み頂けると嬉しいです。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
2018/12/03(Mon) 16:57 | URL  | 粒山 樹 #-[ 編集]
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皆さんこんばんは。今回は今年の大河ドラマ『西郷どん』第43~44回の感想です。まずはあらすじ。帰朝後、大久保利通(瑛太)と岩倉具視(笑福亭鶴瓶)はかたくなに西郷隆盛(鈴木亮平)の朝鮮派遣を反対するが、決定事項として退けられてしまう。そんな中、太政大臣三条実美
2018/12/17(Mon) 20:04:34 |  Coffee, Cigarettes & Music