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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
大河ドラマ『西郷どん』も、今回を含めていよいよ残り三回となりました。
今回は、西南戦争勃発の直接的原因となった私学校生徒たちによる陸軍火薬庫襲撃事件が描かれ、最終的に西郷が挙兵を決断しましたが、ただ、少し気になったのは、桐野利秋や篠原国幹といった西郷の腹心たちが、まるで西郷を挙兵に追い込んだかのように描かれていたことです。
しかしながら、実際の彼らはむしろ血気にはやる若者たちを抑制する立場でいましたから、あのように冷静だったのは西郷一人であったかのような描き方は誤解を生むような気がします。
当時の西郷はと言うと、人と会うのを極力避けていたため、今回の『西郷どん』で描かれたように、騒ぎ立てる若者たちを押さえるどころか、悠々自適に狩猟や湯治に出かける日々を過ごしていました。
実際、西郷が私学校生徒暴発の一報を受けたのも、鹿児島城下から遠く離れた大隅半島南部の小根占(こねじめ)という場所であり、西郷は狩猟に出かけている時にその知らせを受け取ったのです。

後年、勝海舟が西郷のことを偲んで作詩した

「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな」

の歌に象徴されるように、西郷が西南戦争における一種被害者であったという観点から、意図せぬ戦争に巻き込まれたかのような描き方をされることが多いですが、確かに西郷は巻き込まれる形で挙兵せざるを得ない状況に追い込まれはしましたが、前回のブログでも触れたとおり、私学校生徒たちが暴発したのは、西郷にも大きな責任があったと言えます。
西郷は私学校生徒の暴発を未然に防ぐための防止策を根本的にとっていなかったことから、彼らが暴発したのは当然の帰結であり、当時の西郷は運を天に任せていた観が正直否めません。

また、よく西南戦争は、今回の『西郷どん』でも描かれたように「桐野の戦争」であったかの如く言われることがありますが、私から言わせれば、「西郷の戦争」以外の何ものでもありません。
西郷が挙兵し、薩軍の中心に居たればこそ、九州各地から従軍希望が相次ぎ、九州全域を巻き込んだ大きな戦争に発展したわけですから、それを桐野一人のせいにするのは、はっきり言って酷です。
このように桐野が悪く言われるようになったのは、西南戦争後も西郷人気は相変わらず高く、衰えるどころか逆に上がりさえし、一種神格化に近い形で語られるようになったことから、西郷のことを悪く言えない(批判できない)風潮が世間に残ったためであり、桐野は一種スケープゴートにされたと言えるのです。

(西郷暗殺計画はあったのか?)
西南戦争が勃発する直接的な原因となったのは、私学校生徒たちによる陸軍火薬庫襲撃事件にあったと言えますが、それと併せて「西郷隆盛暗殺計画」、つまり、政府から西郷を暗殺するための刺客団が送り込まれたという一件も、私学校関係者の怒りを大いに買い、のちに薩軍が挙兵する大きな原因の一つとなりました。

DSCF0985.jpg
草牟田の陸軍火薬庫跡(鹿児島市)

この西郷暗殺計画が明るみに出たのは、今回『西郷どん』にも登場した中原尚雄という人物がきっかけです。
中原が警視庁から放たれた密偵であることが露見したことから、当時私学校関係者で占められていた鹿児島県警察は、中原を捕縛し、厳しい取り調べを行ったのですが、その際に中原が西郷暗殺計画を自供したとされているからです。
中原が拇印した口供書には、

「大警視川路利良宅ヘ差越候処、同人ヨリ各県ノ事情等彼是ト承リ候末、鹿児島県ニ於テ近頃種々不穏向モ有之迚モ、西郷陸軍大将在県ナレハ、名義不立粗忽ノ所為ハ無之トハ申ナカラ、万一挙動ノ機ニ立至ラハ、西郷ニ対面刺違ヘルヨリ外仕様ハナイヨトノ申聞ニ随ヒ居候」(「中原尚雄口供(丁丑擾乱記)」『鹿児島県史料 西南戦争』一)

とあり、大警視の川路利良から「万一の場合は西郷と刺し違えよ」と命じられたと記されています。
また、中原は川路からの命を受け、ともに鹿児島に帰省する者たちと共に、

「第一私学校ノ人数ニ離間ノ策ヲ用ヒ、我方ニ人数ヲ引キ入レ私学校ヲ瓦解セシメ、動揺ノ機ニ投シ西郷ヲ暗殺致シ、速ニ電報ヲ以テ東京ニ告ケ、海陸軍併セテ攻撃ニ及ヒ、私学校ノ人数ヲ鏖シニ致候儀ヲ決定シ」

と、私学校を瓦解させるために西郷暗殺を決議したとも記されています。

中原が政府の放った密偵であると判明したのは、『西郷どん』には出てきませんでしたが、谷口登太という人物が原因です。
谷口は私学校から送り込まれた、いわゆる逆スパイで、中原の帰郷目的を探るため彼に近づいたのですが、そのような事情があることとは露知らず、中原は知己の谷口に対し大いに心を許しました。
そして、中原は谷口に対して、次のように帰郷の目的を語ったと、谷口の陳述書にあります。

「是非共此私学校ナル者ヲ瓦解セシメ候策ヲ施シ候次第ニテ、各郷ニ於テハ如何ニモ手ヲ下シ安ク、是ハ掌中ニ有之候得共、庁下ニ於テハ甚タ六ケ敷、乍然此根拠ヲ不破候テハ、瓦解ニ至兼候ニ付、此処ニ於テ秘中ノ秘策ヲ用ヒ、十分可相崩之事ヲ決シ居候ニ付、第一西郷隆盛ヲ暗殺セハ、必ス学校ハ瓦解ニ可至、其他桐野・篠原ノ西士(両士)迄斃候得ハ、其跡ハ至テ制シ安ク」(「谷口登太郎陳述、中原尚雄ヨリ聞取書(鹿児島征討始末 別録一)」『鹿児島県史料 西南戦争』一)

このように、中原は谷口に対して、自らの帰郷は「私学校の瓦解」が主目的であり、そのための手段として、「西郷を暗殺する秘策」を持っていると語ったのです。
また、中原は谷口に対して、

「西郷ニハ同人知己ノ事故、面会ヲ得テ可刺殺覚悟ニ候、勿論此人ト共ニ斃レ候得ハ、我身ニ於テハ不足ハ無之」

と自らの決意を述べたともあります。

また、このような西郷暗殺計画をまるで補完するかのように、同時期に大久保の命により鹿児島に入った野村綱は、中原ら警視庁の密偵団が身柄を拘束されたことを知ると、鹿児島県庁の大書記官・田畑常秋を訪ねて自首した後、次のような供述をしました。

「殊ニ警視庁ヨリモ探索差出シ有之候、皆必死ノ覚悟ニテ先キ達テ出立セリ、暴発等の節ハ自ラ大小為ス所アルヘシト、懇々被申渡候ニ付、其意ハ畢竟主任ノ人ヲ斃スカ、又ハ火薬庫ヘ火差入ル等ノ事ニテ、随分仕果スヘシト汲受ケ、左様ノ事ナラ承知仕候旨相対ヘ候」(「野村綱口供(丁丑擾乱記)」『鹿児島県史料 西南戦争』一)

つまり、野村は、大久保が警視庁密偵団の目的を「主任の人を斃す」、つまり西郷暗殺計画であることを語ったと自供したのです。

以上のような事実だけを考えると、西郷暗殺計画は真実であったと判断できますが、ただ、前出の中原の口供書は、私学校関係者による激しい拷問の末に作成されたものであることから、その自供の信憑性については、昔から疑問視する声が大きいと言えます。
事実、中原はのちに鹿児島に入った政府軍に救出された後、前述の口供書の内容を完全否定し、口供書については拇印を強要されたと証言しています。

戦後に中原が提出した文書によると、中原が鹿児島に帰郷したのは、

「我輩帰縣スルノ本意タルヤ、我親戚朋友間ニ大義名分ノ存スル處ヲ確守シ、無名ノ黨ニ役セラレス、方向ヲ失ハサルノ眞意ヲ説カンカ為メ」(『大久保利通伝』下)

であり、「私事ニシテ公事ニアラス」と、あくまでも私的な自発的行為であったとあります。
中原は親類縁者が私学校党に与するのを危惧し、その説得にあたるため、自ら鹿児島に帰郷したと述べたのです。

また、中原は川路から西郷を暗殺しろというような命令はなく、川路の邸宅において、権大警部の大山綱昌から、旅費として四ヶ月分の給料を受け取った際、同人から「反覆帰縣ノ上ハ、萬事忍耐シテ粗暴ノ事ナク無事ニ帰ルヘシ」との訓令だけを受けたとあります。
そして、私学校関係者に捕縛された後、「お前は西郷大将を暗殺するために帰ったのだろ?」と詰問された際も、「決シテ然ラズ、両親病気ニ付看病ノ為メ帰縣シタリ」と答えたとあり、また、前述の西郷暗殺計画を記した口供書についても、「無理ニ拇指ニ墨ヲ點シヲ強テ押サセ」と、拇印を強要されたと語り、「其文中暗殺ノ文字アルヲ聞キ、大ヒニ驚愕」したともあります。

以上のように、中原は私学校関係者が作成した口供書の内容を戦後に完全否定しているわけですが、実は、それは中原から暗殺計画を直接聞いたとされる谷口も同様です。
谷口は西南戦争終結後、九州臨時裁判所において陳述した口供書において、中原から暗殺計画を聞いたという話を否定し、前言を撤回しています。
谷口の口供書の末尾には、

「中原尚雄等西郷隆盛を暗殺せんと企てたる云々、自分より私学校黨の者へ申出たるに由り、右を證據として取糺の上、中原等の口供成案相成りたる趣、今般再應御取調を受け候得共、暗殺の儀は中原より決して承はらさるは勿論、右様の儀自分より相良長安其他へ申出でたる事は一切無之、前件申立候通、鹿児島より出陣の途中に於て、邊見十郎太より中原の口供なりとて讀聞かせ候節、其文中暗殺云々の儀有之、不審に思ひ候次第に付、其口供は全く私学校黨に於て、取拵へたることと想像致し候事、右之通相違不申上候」(『大久保利通伝』下)

とあり、谷口は「暗殺の儀は中原より決して承はらさる」と申し述べ、中原から暗殺云々を聞いたということは私学校関係者のねつ造であったとしているのです。

このように西郷暗殺計画というものは、西南戦争の前と後では事実が完全に相反していますが、ただ、当時の私学校関係者が、この暗殺計画を真実だと信じ切っていたことは間違いありません。
政府から何の予告も無く武器・弾薬が運び出されるという事件が発生し、県内に動揺が広がっている最中、それに輪をかけて私学校生徒たちが陸軍火薬庫を襲撃するという異常事態が生じたこと。さらに警視庁の現職警官たちが大挙鹿児島に帰郷し、探索活動を行っていた事実を知ったことで、当時の私学校関係者の猜疑心は最大限に増長していました。
このように、ただでさえ過敏になっている最中での中原の西郷暗殺計画の自供は、たとえ拷問の末の供述であったとしても、私学校関係者には十分信じるに足る証拠であると考えるにいたったであろうことは想像に難くありません。
また、前述のとおり、野村綱という人物は自ら自首したうえで、密偵団の西郷暗殺計画を語ったわけですから、私学校関係者は野村の証言でさらに暗殺計画への確信を深めたものと思われます。
実際、それは西郷も同じで、政府から自らを殺すための刺客を放たれたということを真実だと受け止めていたようです。

西南戦争勃発当時、鹿児島県警察署長を務めていた野村忍介は、薩軍幹部の一人として西南
戦争を戦いましたが、のちに生き残り、懲役十年の刑を受けました。
その野村が、明治13(1880)年3月2日に市ヶ谷の監獄で行われた取り調べにおいて、

「暗殺ノ一条ハ、西郷ハ実ト思ヒシナルヤ」

と問われて、

「全ク実ト思ヒタルナリ」

と答えています(「西南之役懲役人質問第一」『鹿児島県史料 西南戦争』一)。

また、このような感覚は何も西郷だけに限ったことではなく、当時鹿児島に居た島津久光も同様です。
高島弥之助『島津久光公』には、「久光忠義二公も其の刺殺の計畫を信ぜられ、政府は刺殺は視察なりと辯明するも、之れ唯遁辭に過ぎずとせられた」とあり、久光もそして忠義も西郷暗殺計画を信じていたとあります。

そのような久光や忠義の気持ちや考えは、久光父子に対して下された勅書への奉答書に強く表れています。
薩軍が挙兵した約一ヶ月後の明治10(1877)年3月9日、公家の柳原前光が勅使として鹿児島に入り、久光父子に対して、薩軍の征討に協力するよう命じる勅書を手渡しました。
それに対して久光は、太政大臣の三条実美に対し、奉答書を書いて差し出していますが、その中に次のような文言があります。
少し長いですが、その部分を抜粋すると次のとおりです。

「西郷隆盛等此度政府ヘ訊問トシテ多数兵器ヲ携ヘ出行セシハ、既ニ臣道ヲ失シタル、其罪自大ナリ、且内務卿大久保利通・大警視川路利良ヨリ内命ヲ受、数人帰省等ニ事ヨセ離間等ノ策ヲ行フ云々事発覚ノ義、妄説ノ布達拝観ス、此義臣等ノ大ニ疑惑スル処ナリ、其故如何トナレハ道程数百里ヲ隔テ、則之レヲ妄説ト見認メラル、西郷等ニ於テ必ス其罪ニ伏スヘカラス、是レ至理至平ノ所分ニアラサルカ故ナリ、鹿児島県人民ニ於テハ最確証ヲ挙ケ之レヲ見聞シタルモノニテ、或ハ間ヲ使ヒ同意ノ体ヲナリタルアリ、或ハ自訴シタルアリ、故ニ傍人モ挙テ之ヲ証トシテ疑ハサル所ナリ」(「朝命ニ対スル久光公ノ奉答書」『鹿児島県史料 玉里島津家史料』八)

久光は挙兵に及んだ西郷の罪は大変重いとはしながらも、西郷暗殺計画については、「此義臣等ノ大ニ疑惑スル処ナリ」と書いており、当時久光が暗殺計画を真実だと受け止めていたことが分かります。
久光はこのように証拠が揃っている以上、西郷等がそれを信じるのは致し方ないとして、言わば西郷の立場を擁護しているのです。

このように久光が西郷を擁護したのは、久光自身が中原等の口供書を実際に読んでいたからでしょう。
『鹿児島県史料 西南戦争』一所収の「島津久光西郷隆盛トノ面語ハ明治七年以来ナシ」という文書の中に、鹿児島県令の大山綱良が、廃藩置県以後は久光と面会することが稀であったとの記述がありますが、その後に次のような記述があります。

「二月七八日頃中原尚雄等カ口供案ヲ、田畑常秋ヲシテ斯ル次第ナルヲ告ケタルノミナリシト」

前述のとおり、田畑常秋とは野村綱が自首を申し出た相手で、当時鹿児島県の大書記官でした。
この記述を見ると、大山は田畑を久光の元に派遣して、中原らの口供書の写しを送っていたものと思われます。
当時の久光は傍観の立場を崩していませんでしたが、薩軍の去就については関心を持っていたものと考えられ、大山は久光への報告は逐一怠らなかったものと推察します。

このように、実際に中原らの口供書に目を通していた久光は、暗殺計画が根も葉もない噂話ではないと判断し、政府に対して、政府軍と薩軍は一旦休戦したうえで、西郷と大久保が出席する臨時裁判を開き、理非曲直を正すべきだと主張しました。
前出の奉答書には、

「仰願クハ至急休戦ノ命ヲ総督府ヘ下サレ、此度ノ巨魁人員を定メ、平穏ノ所分ヲ以テ中途ヲ護送シ、大久保・川路モ随テ之レヲ召シ、至理至当聊偏頗ノ所分ナク、各法官ヘ渡シ奏任以上其席ニ列坐シ、非常ノ裁判ヲ開キ、其結局ニ至リ律ニ照シテ之レヲ罪シ、其上若異議ヲ生セハ断然ト罪ヲ鳴シ、之レヲ征討セラレテ可ナリ、乞フ、速ニ実事施行アラン事ヲ」

とあり、久光は西郷だけでなく大久保や川路も召喚し、裁判という場において、法律に照らしてどちらに非があるかを判断し、そして罰するべきだと主張したのです。

また、当時島津家の家令を務めていた奈良原繁(前名・喜八郎)が、久光に対して差し出した建言書には、

「西郷ガ平生ノ志行ニ於テ容易ニ此暴妄挙ヲ図ル者ニ非サレハ、其原因ハ或ハ中原以下口供ノ事ニ発スルナルヘシ、然ラハ則擁兵東上ノ一事ヲ以テ未遽ニ西郷ノ叛跡顕然ヲ指定ス可カラス、必ヤ中原以下ヲ糾弾シテ其事実ヲ公言セシメ、而シテ後始メテ其叛逆ノ真偽を知ル可ク」(「奈良原繁ヨリ久光公ヘノ建言」『鹿児島県史料 玉里島津家史料』八)

とあり、西郷挙兵の罪を問うためには、まず暗殺事件の真否を確定する必要があると奈良原は主張しています。
奈良原という人物は、慶応末期から明治期にかけて、西郷とは主義主張が異なり、そりが合わなかった人物です。
その奈良原でさえも、「西郷ガ平生ノ志行ニ於テ容易ニ此暴妄挙ヲ図ル者ニ非サレハ」と、西郷の性格から考えると、余程のことがない限り暴挙に出ることはないと庇っていることから察しても、当時の鹿児島県内の空気感が想像できます。

以上のように、当時の鹿児島県内は、政府から西郷暗殺のための刺客団が放たれたということを相当以上に信じ切っていた空気が充満していたことが分かりますが、西郷暗殺計画の真相については、判断が非常に難しいです。

平成25(2013)年6月、西南戦争勃発当時の鹿児島県裁判所の判事七人が、停戦と暗殺事件の真相解明を直訴する明治天皇宛の上奏文(密訴)が発見されたとのニュースが流れ、その際、さも暗殺計画の黒幕は大久保であったかの論調がなされましたが、当時の鹿児島県は行政機関のトップであった県庁を筆頭に、警察などの組織も全て私学校関係者に握られている状況でしたから、裁判所の判事が直訴したことをもってして、西郷暗殺計画が真実であり、かつ今回の『西郷どん』で描かれたように、大久保がその黒幕であったとするのは、少し無理がある解釈だと言えます。
西郷対大久保、大久保対西郷と、明治維新後は常に対立構図で話されがちな二人ですが、これまでも本ブログで書いてきたとおり、二人は政治的に対立し、袂を分かったとは言え、お互いに憎しみの気持ちを抱くほど、当時険悪な関係にあったとは考えられません。
実際大久保が西南戦争勃発直後の明治10(1877)年2月13日付けで鹿児島県に布達した文書には、

「西郷隆盛ハ過激少年ニ対シ大義名分ヲ以、屢説諭ニ尽力致候処、終ニ承服ニ不至、不得止ヲ避ケ候趣、、該県令ニ於テモ毫モ方向ヲ不失、充分鎮撫ニ尽力致候」(『鹿児島県史料 玉里島津家史料』八)

とあり、当時の大久保は西郷の関与を否定していることから考えても、西郷が挙兵に加わる理由となり得る暗殺計画を目論むとは到底考えられません。
いかに大久保が策士であったとは言え、簡単に暗殺命令を出すような軽率な人物ではなかったでしょうし、大久保がそのような愚策を考えるはずも無かったと私は考えます。
なぜなら、西郷の暗殺が失敗・成功のいずれの結果になったとしても、その影響は計り知れず、鹿児島県全体が暴徒化することは必定であり、もしかすると島津家、つまり久光もそれに巻き込まれる可能性もある危険な策であったと言えますので、大久保がそのような指令を出すことはあり得なかったものと私は推察します。

しかしながら、それと同時に、西郷暗殺計画が全く根も葉もないところから生じた話であったとも思えないのは事実です。
中原から暗殺計画を直接聞いたとされる谷口に関しても、前述のとおり、戦後その証言を覆しはしましたが、その際に提出した口供書には、

「併し西郷若し事を擧る時機に至らば、立越し議論に及ひ、聞き入れざる時は刺し違へるより外に手はない、此人と共に斃るれば吾身に於て不足は無之」(『大久保利通伝』下)

と書かれてあり、中原が谷口に対して「西郷と刺し違える覚悟を持っている」と話したことに関しては前言を覆していません。

また、のちに明治43年4月20日、『薩南血涙史』の著者・加治木常樹が谷口と直接会って話を聞いた際、谷口は「暗殺の事は正しく中原より聞きたる事に相違なき事實なり」と、またもや前言を撤回して、中原から聞いた暗殺計画は真実だと述べています。
谷口は取り調べの際に、暗殺事件のことは「水掛論」になっていると言われ、「幾度も八代鏡の官米掠奪事件を除去する事を申告されたり」と、つまり、他の罪を軽くするので今さら無用なことは書くなと誘導された末、暗殺計画については聞いていないものとしたと語っているのです。
確かに、今で言う司法取引ではないですが、自らの罪を軽くしてやると言われれば、余程確固とした意志を持っている人以外は、それに応じる言動をとったという谷口の行動も理解できます。

また、そもそも中原の帰郷理由についても、彼が戦後供述したように「私事ニシテ公事ニアラス」と、警視庁の関与が一切無かったということは、現代に遺されている各種史料から判断しても偽証であることは明白であるため、川路もしくはその側近の大山綱昌から、「いざとなれば、西郷や私学校幹部と刺し違えてでも目的を果たせ」くらいの話はあったと考えてしかるべきではないかと思われます。
ただ、それが暗殺計画の命令であったのかと考えると、とても微妙であると言えましょう。
話はそれますが、昨今生じた日本大学アメリカンフットボール部の危険タックル問題を考えても、どこまでが指示なのか、それともどこからが指示された方の独自判断なのかは、当事者の証言だけでは確定しづらいものがあると言えます。

以上のように考えると、いわゆる「西郷暗殺計画」というものが真実であったのかどうかについては、全く根も葉もない「シロ」と言う訳ではなく、「グレー」に近いものはあったと思われます。
しかしながら、その指令が大久保から出ていたということに関しては、やはり考えづらいと判断せざるを得ません。


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【2018/12/02 20:50】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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もうすぐ終わるんですね……
あやママ
こんにちは。ずーーっと前にお邪魔させて頂きましたあやママです。お元気ですか?
来週は西南戦争……切ないですね……
私学校での出来事が放送されましたが、西郷さんの暗殺命令は事実とばかり思ってました……しかし、「グレー」との事。色々と深いですね〜〜。勉強になります。 来週は我が熊本に攻めて来る訳ですね……そんな熊本城ですが、地震で凄い事になってしまいました。今、頑張って復帰の最中です。こっちも良かったら見守ってやって下さいね!西郷さんも今の熊本城をご覧になったらさぞ、びっくりされるでしょうね。

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もうすぐ終わるんですね……
こんにちは。ずーーっと前にお邪魔させて頂きましたあやママです。お元気ですか?
来週は西南戦争……切ないですね……
私学校での出来事が放送されましたが、西郷さんの暗殺命令は事実とばかり思ってました……しかし、「グレー」との事。色々と深いですね〜〜。勉強になります。 来週は我が熊本に攻めて来る訳ですね……そんな熊本城ですが、地震で凄い事になってしまいました。今、頑張って復帰の最中です。こっちも良かったら見守ってやって下さいね!西郷さんも今の熊本城をご覧になったらさぞ、びっくりされるでしょうね。
2018/12/03(Mon) 19:01 | URL  | あやママ #-[ 編集]
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