FC2ブログ
西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
いよいよ西南戦争の火ぶたが切って落とされました。
最終回まで残り二回で西南戦争全体を描くのは、少し無理があると言えますが、『西郷どん』は戦局の経過よりも、西郷自身の去就を描くことに、より重点を置いていると言えそうです。
西郷は一体どのような最後を迎えるのでしょうか。最終回がとても楽しみです。

さて、今回の『西郷どん』では、西郷家の人々にも悲運が重なりました。
西郷の弟・小兵衛が熊本北方の高瀬をめぐる攻防戦で戦死し、また西郷と愛加那の息子・菊次郎も右足に重傷を負いました。
この二人の戦死・戦傷については、前回紹介した野村忍介ら薩軍生き残りの面々が大変興味深い証言を残していますので、ここで少し紹介したいと思います。

まず、菊次郎についてですが、前出の野村と共に、鮫島敬助(奇兵一番中隊右小隊長)、大野義行(狙撃隊一番中隊長)の二人が、明治13(1880)年4月20日、市ヶ谷監獄において、「西郷菊次郎降ルノ状ハ如何」という質問を受けた際、次のように答えています。

「菊次郎ハ兵士ニテ出張、高瀬ノ役割ヲ被リタリ、長井出発ノ時僕永田熊吉附添ヒ、谷川ノ丸木橋ヲ渡ル時橋下ニ墜チタリ、熊吉之ヲ負ヒ谷ヲ下リ長井ニ帰リ、トテモ敵中ヲ通リ過ルコトヲ得サルヲ図リ、共ニ出テ降レリ、菊次郎其時十七歳計ナリ」(「西南之役懲役人質問第三」『鹿児島県史料 西南戦争』一)

今回の『西郷どん』では余り詳しく描かれませんでしたが、延岡北方の「和田越(わだごえ)の戦い」と呼ばれる決戦で敗れた薩軍は、長井村の俵野において軍を解散し、政府軍の囲みを破って鹿児島に戻ることを決断しますが(これは次回描かれるかと思います)、この三人の証言によれば、菊次郎は西郷と共に峻険な可愛岳を脱出しようと試みましたが、橋から落下して果たせなかったため、従者の熊吉が負傷している菊次郎を背負って長井村へと戻り、最終的に政府軍に投降したとあります。
今回の『西郷どん』では、西郷が菊次郎に投降するよう諭していましたが、野村らの証言によれば、菊次郎は父と共に一度は脱出を試みたことが分かります。

DSCF0727.jpg
和田越決戦の地(宮崎県延岡市)

次に、小兵衛のことですが、前出の野村、鮫島、大野の三人は、その6日後の同年4月26日に行われた取り調べにおいて、「隆盛ハ恒ニ「ヒストール」ヲ所持シタルニアラスヤ」と問われた際、

「然ラス、自分等終ニ之ヲ見ス、弟小兵衛十六連ノ銃ヲ所持セリ、小兵衛死後隆盛之ヲ其従者ニ持タセタリ」(「西南之役懲役人質問第四」)

と答えており、戦死した小兵衛が十六連発の小銃を所持していたことが分かりますが、西郷はその銃を従者に持たせたとあるのは大変興味深いです。
果たしてその従者とは、一体誰のことでしょうか? 小兵衛の従者なのか、それとも前出の熊吉を指すのでしょうか? 「其の」とあることから、小兵衛の従者のような気もしますが、もし熊吉であったとしたならば、西郷が菊次郎の護衛のためにと小兵衛の形見の小銃を手渡し、「熊吉、菊次郎を頼みもす」と言ったなどという想像も膨らみます。
私はこういうのが創作のあるべき一つの姿なのではないかと感じます。全く根も葉もないところから突拍子のない話を作り上げるのではなく、こうしたちゃんと種子のあるところから、それを大きく想像・発展させ、面白く描くというのが、いわゆる歴史ドラマの本領と言うべきものではないでしょうか。

(桐野利秋のこと)
『西郷どん』における桐野利秋像は、これまでドラマや映画で数多く描かれてきたとおり、まさに「猪武者」のような扱いですが、膨大な薩摩藩史料を編纂したことでも有名な元薩摩藩士・市来四郎は、桐野のことを

「桐野ハ廉潔実直勇豪仁慈ノ人ト謂フヘシ、困難ヲ甘ンシ名利ヲ顧ミス、義ニ走ル速カニシテ、人ニ遇スル愛憎ナク、金銭ヲ見ルコト土芥ノ如ク、貧ニ与ヘ窮ニ恵ミ、酒食ヲ好マス、奸黠狡猾ナルヲ見テハ、隠言ナク面責罵詈甚シキニ至ル」(「桐野利秋(丁丑擾乱記)」『鹿児島県史料 西南戦争』一)

と書いており、総じて「英豪仁慈ノ人」と評しています。
桐野が粗暴な人物であったとされているのは、前回のブログでも触れたとおり、桐野は一種西南戦争のスケープゴートにされたからであって、当時の政府関係者が殊更に桐野の悪口を流布するよう努めたことに端を発するのではないかと私は考えています。

例えば、薩軍が熊本に向けて進撃する際、桐野が「熊本城を落とすのは、この青竹棒(いらさぼう)一本で足りる」「この青竹の色が変わらぬうちに東京まで行く」などと豪語したという有名なエピソードがありますが、実はこれらも全く根拠のない話です。
野村忍介は、市ヶ谷監獄で行われた取り調べの際に、

「桐野ハ始メ出軍ノ時青竹ヲ截テ之ヲ握シ、此竹ノ未タ色ヲ変セサル内ニ東京ニ達センと云タリヤ」

と問われて、

「一切聞カサル所ナリ」

と明確にそのことを否定しています(「西南之役懲役人質問第四」)。

また、野村は「西郷、軍事ハ総テ桐野ニ委ネタリト云フハ如何」とも問われていますが、この質問から察しても、当時の政府関係者がいかに桐野に戦争の責任を押しつけようとしていたのかが分かります。
この問いに対して野村は、

「然ラス、戦地ヲ巡見ハセサレトモ、本営ニ在テ諸方ノ大駆引ヲ指揮ス、苦戦ノ時ニハ自ラ出テ戦ハント云フ事モ度々ナレトモ、諸将之ヲ留メタリ」

と西郷自身が戦の指揮に関与していたと答えています。

その他にも、野村は「鹿児島ヘ入リタル時、桐野ハ喜テ宅ニ入リ、酒ナト飲ミタリト云フハ実ナリヤ」「桐野ノ妾降参シタル説アリ、実ナリヤ」(「西南之役懲役人質問第二」)などという、桐野の性質に関係するような質問を受けていることから察しても、当時の政府がいかに桐野の評判を落とそうとしていたのかが分かるのではないでしょうか。
もちろん、これらの質問に対しても、野村は、酒の件については、「然ラス、桐野ハ城山ノ硝兵線ヲ巡視スルコト一日ニ凡三タヒ位ニテアリタリ」と、桐野が真面目に哨戒線を巡視していたと答え、妾の件については、「陣中ニ婦人ヲ連レタルコトヲ聞カス、勿論薩摩ニテハ妾ヲ抱ヘルモノナシ、虚説ナルヘシ」と否定しています。
野村は桐野とそりが合わなかった人物として有名ですが、そんな野村でさえも、桐野があらぬ汚名を着せられることを良しとしなかったのです。

桐野だけではなく、西南戦争全体を通して言えることですが、西南戦争は錦絵や講談といったフィクションの類いの作品の影響が強いためか、史実と乖離して描かれていることが少なくありません。
例えば、『西郷どん』では、西郷が鹿児島を出発する際、陸軍大将の軍服を着ており、他の時代劇等でも同様に描かれていますが、実はこれに関しても野村は否定しています。
野村は「西郷ハ陸軍大将ノ礼服ヲ着シテ出軍シタルト云ハ実ナリヤ」と問われて、

「荷物中ニ所持アリタルヤハ知ラス、戦争中ハ追々本営ニ到リ西郷ニ面セシニ、其事ハ一切ナキナリ」(「西南之役懲役人質問第一」)

と答えているのです。

少し話がそれますが、西郷の軍服に関して、私はとても不満に思っていることがあります。
『西郷どん』では、東京で政府に出仕していた時も、西郷は常に軍服を着用して政務に携わっていましたが、なぜあのようにことさら軍服を着せる必要があったのでしょうか?
あれでは、一昔前の西郷像である「西郷=軍人(武人)」というイメージを視聴者に対して植え付けかねません。
当時の西郷は、明治6(1873)年5月以降、陸軍大将の職にはありましたが、政府の首班と言うべき筆頭参議でしたので、あのように軍服姿で廟議に出席するはずがありません。
『西郷どん』は、新しい西郷像を描くという触れ込みであったにもかかわらず、これまで視聴した限り、旧来の西郷像を踏襲して描いていることがとても多く、この軍服一件に関しても、なぜそのような演出をしたのか、私は理解に苦しみます。
「西郷=軍人」というイメージは、それこそ戦前の国威発揚の際に使われたものであり、今どきそんなイメージで西郷を描いて視聴者に一体何を訴えかけたいのか? 私は違和感を禁じ得ませんでした。

(西郷の過信)
拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも書きましたが、鹿児島を出陣した西郷は、おそらく京・大坂までの道中、激しい戦闘には発展しないものと考えていたのではないかと私は推測しています。
後述しますが、西南戦争において、薩軍は最も拙策とも言える陸路北上策をとっていることから考えても、戦局に対して大変甘い見通しを持っていたとしか考えられないからです。
事実、薩軍は早くも熊本で引っかかり、熊本鎮台兵と激しい戦いを繰り広げることになりました。

今回の『西郷どん』では、捕らえた鎮台兵から、天皇が薩軍の征討を命じられたということを聞き、西郷が驚く様子が描かれていましたが、実際の西郷は驚きと共に怒りを顕わにしたようです。
そんな西郷の怒りは、明治10(1877)年3月5日付けで、鹿児島県令の大山綱良に宛てた次の書簡に強く表われています。

「征討将軍宮様へ別紙御差し出し成し下されたく御願い申し上げ候。此の上ながら宮を押し立て来り候わば、打ち居え罷り通り申すべく候に付き、何卒右の御計らい御手数ながら宜敷願い奉り候」(『西郷隆盛全集』三)

征討将軍宮様とは、薩軍の征討を命じられた有栖川宮熾仁親王のことであり、西郷曰く「別紙」とは、自らの挙兵の趣旨を認めたもので、そこには次のように書かれています。

「畢竟政府においては、隆盛等を暗殺すべき旨官吏の者に命じ、事成らざる内に発露に及び候。此の上は人民激怒致すべきは理の当然にこれあるべく、只激怒の形勢を以て征討の名を設けられ候ては、全く征討をなさんため暗殺を企て人民を激怒なさしめて罪に陥れ候姦謀にて、益政府は罪を重ね候訳にてはこれある間敷や」(『西郷隆盛全集』三)

この記述を見る限り、前回書いたように、西郷は自らの暗殺計画を信じていたことが分かります。
また、西郷はそのことをきっかけにして薩摩を征討する動きに出た有栖川宮に対して、

「閣下 天子の御親戚に在らせられながら、御失徳に立ち至らざる様、御心力を尽さるべき処、却って征討将軍として御発駕相成候儀、何共意外千万の仕合いに御座候。就いては天に事(つか)うるの心を以て能く御熟慮在らせられ、御後悔これなき様偏に企望奉り候」

と、「天皇の親戚ともあろうお方が、征討というような形で出兵するとは意外千万である。天意をよく考えたうえで行動しないと後悔することになる」と、とても強い言葉を使って批判しています。
西郷が前出の大山宛て書簡の中で、「此の上ながら宮を押し立て来り候わば、打ち居え罷り通り申すべく候」と書いたのは、「有栖川宮が薩軍の挙兵趣旨を理解したにもかかわらず、それでも出陣してくるのであれば、それを打ち据えて(叩いて)でも罷り通るつもりだ」と、その怒りを顕わにしたと言うことです。
今回の『西郷どん』でも同じようなセリフを西郷が吐いていましたね。

このように、西郷は自らのとった行動が国家への反逆と位置づけられたことに対し、大きな不満を抱き、ここで初めて戦うことを決意したと言えますが、元来、西郷率いる薩軍が陸路で熊本を目指し北上したのは、薩軍幹部たちが、京・大坂までの道中では激しい戦闘には発展せず、また、たとえ戦闘になったとしても、簡単に勝てるものとふんでいたことへの裏返しであったと言えるのではないでしょうか。
なぜなら、薩軍が本州へ進むためには、関門海峡を渡ることが必須であったにもかかわらず、その具体的な方策を事前に検討しないまま出陣しているからです。

鹿児島県令・大山綱良の口供書によると(「鹿児島一件書類」『鹿児島県史料 西南戦争』三)、大山が西郷や桐野、篠原に対して、

「自分ニ於テハ此度ノ出兵小倉迄ハ無滞通行モナルヘキカ、其先ノ渡海ハ如何ト懸念候」

と、関門海峡をどうやって渡海するのかと懸念を示した際、西郷は、

「外ニ見込アリ」

と答えたとあり、また、桐野や篠原は「船橋ニテモ懸ルヘシ」と言って愚弄するような態度を見せたとあります。

また、野村忍介は、市ヶ谷監獄で行われた取り調べの際、「何故海路ヨリ出テサルヤ」と問われて、

「船ナシ」

と答えていますが、取調官から、

「大有、鹿児島等ノ船アリ、如何」

と問い詰められると、曖昧な返事をしたと記録にあります(「西南之役懲役人質問第一」)。
このように野村が返答に困ったのは、自分たちの見通しが甘かったことを突かれたからに他なりません。
西郷が「他に見込みあり」と答えたり、桐野や篠原が「船を並べて橋にする」といった非現実的なことを言っているあたりに、当時の薩軍は自らの強さに酔いしれるあまり、明らかに慢心を生じていたように感じられてなりません。

あくまでも推測ですが、薩軍幹部が陸路をとることを選択したのは、九州各地、いや西日本各地の不平士族を糾合しながら、大きな一団となり、政府に対し大きな圧力をかけようと考えたからではないでしょうか。そういう目的であったとしたならば、薩軍は正々堂々と陸路をとって進軍する必要があったと言えますので、あながちこの推測は間違っていないような気がします。

拙著『維新を創った男 西郷隆盛の実像』にも書きましたが、当時の西郷は自らの声望を過信する余り、ひとたび薩摩が起ち上がれば、全国各地で蜂起者が続発し、政府は対抗策をとることが出来ないと考えていた感が否めません。
西郷が鹿児島を出発して約二週間後の明治10(1877)年3月2日付けで、大山県令に宛てた書簡には、

「筑前・筑後辺蜂起の様子に相聞かれ、大坂は土州より突出、最早攻め落し候風評も御座候(筑前や筑後は蜂起した様子で、大坂は土佐が突出し、既に攻め落としたとの風評もあります)」(『西郷隆盛全集』三)

とあり、西郷が各地の反乱分子の動きに期待感を持っている様子がうかがえるほか、また、そこには西郷が戦局に関して、非常に甘い見通しを持っていたことが併せて分かります。
西郷は自らの声望を過信し、政府に不満を持つ者たちの力と行動に期待し過ぎていたと言えるのです。

このような甘い見通しが、薩軍をして熊本城を包囲するという拙い戦術を選択させたと言えましょう。
西郷以下薩軍幹部たちは、熊本城内の鎮台兵が自分たちの行動に賛意を示し、ほとんど戦うことなく、簡単に開城出来るとの見込みを持っていたと思われますが、それに反して、薩軍は熊本鎮台の激しい抵抗にあい、結局最後まで熊本城を攻め落とすことが出来ませんでした。ここにも薩軍の見通しの甘さが際立っています。

西南戦争における西郷の悲劇とは、決起するための準備が何も整わないまま、急きょ挙兵せざるを得ない状況に追い込まれたこと、また、それに加えて、薩摩に引き続き蜂起した者たちが九州圏内の局地的な地域に留まったことにあったと言えますが、それに加えて、薩軍が敗北した一番の原因とは、自らの強さを過信するあまり、詳細な軍事計画を立てなかったことに起因すると言えるのではないでしょうか。


本ブログ執筆者の著書

『維新を創った男 西郷隆盛の実像』(扶桑社、2017年)定価1,728円

は絶賛発売中です。
西郷隆盛の生涯をより詳しく書いていますので、西郷に興味を持たれた皆様、是非一冊ご購読頂ければ嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。

FC2blog テーマ:大河ドラマ - ジャンル:テレビ・ラジオ

【2018/12/09 20:50】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
トラックバック(0) |

全ての運を天に任せた集団自決
つるしん
粒山さぁの分析・考察やご指摘には、何時もながら、まこて、感服させられもす、今回も、歴史ドラマ足るべきものはとのご意見、桐野どんへの風説の流布の件(くだり)など、実に秀逸な分析・考察ごわんさぁ。 薩摩を出立する前の軍議で既に出されていた由の海路案を退けたのは西郷どんご自身(此の辺りも正に「過信」もあったかも知れもはん)と理解しており、また、陸軍大将名で明確な「軍命」を下してはおられんどころか、県外士族への檄文さえも出しておられんで、積極的・能動的に「勝つ」積りは無かった(況してや、一部の陳腐なご意見に見られるクーデターを起こすなんぞ微塵もビンタを掠めたことなど無か)ことから、東京到達の一縷の望みを懐の奥底に抱きながらも、新政府の遣り方のままで中央集権が盤石・確固たるものに成っても良かとする、全ての運を天に任せた(=天意に任せる、即ち、前回ご指摘の死生観から、最期の最後まで腹切りはせん)自己犠牲の上での「集団自決」が、西郷どんのご本意であったろうと、おいは思ちょいもす。。。


zampanogelsomina
粒山様

いつも素晴らしい解説をありがとうございます。

思うのですが、放送各回毎のこちらのブログの解説を本にしてみてはいかがでしょうか?
ブログに記載されている、当時の手紙や日記等を現代語訳も付記して。
来週で最終回を迎えますが、このままでは誤解されたままの「西郷」で終わってしまうような気がしてなりません。

私、初回放送からの粒山様のブログをプリントアウトして、時折見返しております。


ukoji
延岡は数年前に行きました。
印象に残ったのは俵野の記念館のご主人で、
まだ大河の話などまったく無かった頃で、
とても親切に案内してくれたりして、
なんともいえぬ、あれが西郷と感じさせてくれる
人物でした

ご感想ありがとうございます。
粒山 樹
皆さま、ご感想ありがとうございます。

いよいよ『西郷どん』も来週が最終回です。
私のブログも残り一回となってしまいました。
毎週書いていましたので、何だか寂しい気持ちになっていますが、『西郷どん』が終わっても、これまでと同様に西郷の情報を発信していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお願いいたします。

あっ、是非、本ブログの内容を一冊の本にしてまとめて出版したいところですが、西郷ブームが去った今、本にしてくれるような奇特な出版社は、皆無かと思います(汗)。

コメントを閉じる▲
コメント
この記事へのコメント
全ての運を天に任せた集団自決
粒山さぁの分析・考察やご指摘には、何時もながら、まこて、感服させられもす、今回も、歴史ドラマ足るべきものはとのご意見、桐野どんへの風説の流布の件(くだり)など、実に秀逸な分析・考察ごわんさぁ。 薩摩を出立する前の軍議で既に出されていた由の海路案を退けたのは西郷どんご自身(此の辺りも正に「過信」もあったかも知れもはん)と理解しており、また、陸軍大将名で明確な「軍命」を下してはおられんどころか、県外士族への檄文さえも出しておられんで、積極的・能動的に「勝つ」積りは無かった(況してや、一部の陳腐なご意見に見られるクーデターを起こすなんぞ微塵もビンタを掠めたことなど無か)ことから、東京到達の一縷の望みを懐の奥底に抱きながらも、新政府の遣り方のままで中央集権が盤石・確固たるものに成っても良かとする、全ての運を天に任せた(=天意に任せる、即ち、前回ご指摘の死生観から、最期の最後まで腹切りはせん)自己犠牲の上での「集団自決」が、西郷どんのご本意であったろうと、おいは思ちょいもす。。。
2018/12/10(Mon) 13:15 | URL  | つるしん #-[ 編集]
粒山様

いつも素晴らしい解説をありがとうございます。

思うのですが、放送各回毎のこちらのブログの解説を本にしてみてはいかがでしょうか?
ブログに記載されている、当時の手紙や日記等を現代語訳も付記して。
来週で最終回を迎えますが、このままでは誤解されたままの「西郷」で終わってしまうような気がしてなりません。

私、初回放送からの粒山様のブログをプリントアウトして、時折見返しております。
2018/12/10(Mon) 20:26 | URL  | zampanogelsomina #UtIi8Gow[ 編集]
延岡は数年前に行きました。
印象に残ったのは俵野の記念館のご主人で、
まだ大河の話などまったく無かった頃で、
とても親切に案内してくれたりして、
なんともいえぬ、あれが西郷と感じさせてくれる
人物でした
2018/12/10(Mon) 22:39 | URL  | ukoji #4tZXgICc[ 編集]
ご感想ありがとうございます。
皆さま、ご感想ありがとうございます。

いよいよ『西郷どん』も来週が最終回です。
私のブログも残り一回となってしまいました。
毎週書いていましたので、何だか寂しい気持ちになっていますが、『西郷どん』が終わっても、これまでと同様に西郷の情報を発信していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお願いいたします。

あっ、是非、本ブログの内容を一冊の本にしてまとめて出版したいところですが、西郷ブームが去った今、本にしてくれるような奇特な出版社は、皆無かと思います(汗)。
2018/12/11(Tue) 17:35 | URL  | 粒山 樹 #Si8ZmVdM[ 編集]
コメントを投稿
URL:

Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック