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西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます     (大河ドラマ『西郷どん』の解説も是非お読みください)
宮崎は、私にとって第二の故郷とも言える街です。
私は大阪生まれの大阪育ち、厳密に言えば、出生地は母の故郷の香川県小豆島なのですが、当時、母は大阪に住んでおり、帰省しての出産でした。
そんな大阪で生まれ育った私が、大阪を出て初めて移り住んだところが宮崎県でした。
2005年4月から宮崎で過ごした3年間は、今でも忘れられない貴重な時間となり、今では宮崎に対してとても愛着を持っています。

宮崎は素晴らしいところです。
まず、食に関して言えば、肉・野菜どれをとっても新鮮なものが溢れており、そして美味しい。
また、物価や家賃も安く、経済的にとても暮らしやすい土地です。
レジャー関連でいえば、温泉が県内各所の至る所にあり、入浴料も低価格で湯質も良い。
自然は一杯で風光明媚、空気は澄んでおり、なおかつ一年中温暖な気候なので、毎日清々しい気分で過ごすことが出来ます。
そして何よりも強調したいのが、宮崎の人の良さです。
宮崎の人たちは温和で親切な方が多く、生活するにおいて、とても過ごしやすいです。
私が育った大阪では、仕事においても、対人間関係で苦労することがしばしばありましたが(苦笑)、宮崎に行って実感したことは、宮崎には温厚でかつ性根の優しい人が多いということでした。
かつて私が宮崎に住んでいた頃、人間関係で嫌なことは一度も無かったと言えるくらい、とても住みやすかったという記憶しかありません。
宮崎は本当に最高の場所なのです。

と、宮崎自慢はこれくらいにしておいて(笑)、こんな風に宮崎が第二の故郷と自負する私は、毎年、ゴールデンウィーク、お盆、正月の三回は宮崎市に帰省し、妻の実家で過ごすのですが、その間は宮崎を中心にして、鹿児島などの南九州の史跡巡りによく出かけます。
私のパートナーは、誰あろう元高校教師の義父なのですが、今回も義父を連れて、宮崎市周辺の史跡巡りへと出かけました。

今回最初に向かったのは、宮崎県東諸県郡国富町の義門寺です。
国富町は宮崎市の北西部に位置する町ですが、町の中心である本庄と言う場所は、かつて幕府の天領でした。
宮崎という土地は、江戸藩政時代、鹿児島や熊本のように大藩がなく、天領と小藩に分断されていたところでした。
その名残りからか、国富町では現在でも「天領大綱引き大会」なる行事が開かれていますが、かつての町の中心である本庄は、東諸県郡の物流や交通の要衝であり、江戸時代はかなり栄えた土地であったようです。
その本庄に義門寺という小さな寺院があるのですが、ここはかつて羽柴(豊臣)秀吉の「九州征伐」に際し、秀吉の弟・秀長が本陣を構えた場所でした。
本庄史談會編纂『本庄郷土史摘要』には、次のようにあります。

「天正十五年豊臣氏討薩に際し、豊後より島津の兵を追撃しつつ日向に侵入した羽柴秀長が、此地に來て軍を駐め、當寺を以て本営とした。其時一軍を誡めた厳とした軍令の一書が今に寺寶の一として残されてある」

秀吉の九州征伐、つまり島津氏討伐にあたり、秀長が兵を進めた場所が本庄であったというわけですが、この『本庄郷土史摘要』の記述にある秀長の軍令書については、宮崎県編『日向古文書集成』の中に、義門寺文書(豊臣秀長制札)として収載されています。
次のようなものです。

 義門寺前
一、當手軍勢亂妨狼藉之事
一、陣取放火之事
一、伐採竹木之事
右之條々堅停止畢、若違犯之輩有之者、可處嚴科者也、
 天正十五年五月三日 中納言(花押)


この文書を見ると、秀長は乱暴狼藉や放火、伐採を厳しく取り締まっていたことが分かります。
秀長は誉れ高き名将と謳われた人物ですが、この軍令書の中にも、そういった一面が表れていると言えるかもしれません。

国富町は今では大変のどかな田舎町に変貌しています。
宮崎県の県庁所在地である宮崎市と隣接してはいますが、町の大半は山野に覆われ、かつて羽柴軍が軍を進め、駐留した街だとは想像できないほど、のどかな田園風景が広がっています。
ただ、町の中心部である本庄地区は、往年賑わいを見せていたであろう面影が見てとれます。
前出の『本庄郷土史摘要』によれば、江戸時代の本庄には、和泉屋と枡屋という、他郷にまでその名が響き渡るような大きな商家があり、商人財閥を作って、京・大坂と直接取引を行うなど隆盛を極めたそうです。

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本庄驛を示す標柱

宮崎市から国富町へと続く、のどかな田舎道を運転すること約20分。
義父と私は目的地である義門寺へと到着しました
寺の駐車場に車を止めると、駐車場の壁面に、前述した秀長の軍令書を彫った石版が飾られていました(画像)。

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秀長の軍令書(石版)

また、義門寺の門前には、「史蹟 豊臣軍本営地址」という大きな石碑が建てられており、この地が秀長の本陣であったことが分かります。
『本庄郷土史摘要』によると、義門寺は貞和2(1346)年の創建で、日向を治めていた伊東氏ともゆかりの深い寺院であったようですが、慶長年間には島津義久の位牌が一時期祀られていたことがあったと舊記に記されている、ともあります。
私はその真偽について判断できませんが、「なぜ義久の位牌が遠く離れた日向にあったのか?」と考えると大変興味深い話ですね。
義門寺は、建物自体は既に建て替えられており、秀長が駐留した往時を偲べるものは少ないと言えますが、私のように遠く離れた京阪の地から、秀長がこの地を訪れたかと思うと感慨もひとしおでした。

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義門寺

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秀長の本陣であったことを示す石碑

義門寺を見終えて駐車場に戻った際、最初気づかなかったのですが、秀長の軍令書の石板の傍らに、種田山頭火の句碑が彫られている石板がありました。
そこに刻まれた文字を読むと、昭和5年10月18日、山頭火が国富町の本庄仲町に宿泊したということが記されていました。
大阪に帰ってから少し調べてみると、確かに山頭火は本庄に宿泊したようです。
山頭火が自らの放浪の様子を記録した日記「行乞記(ぎょうこつき)」によると、旧薩摩藩領の高岡町に宿泊した山頭火は、その後、東諸県郡綾町へと向かい、そして本庄に到着し、その日は「さぬきや」という、大正十五年にも宿泊したことのある宿屋に泊まったとあります。
その日、山頭火は、「カフェのようなところに入り、久しぶりにビールを味わった」とも記していますが、当時の本庄は、まだ江戸時代と同様に賑やかな街であったのでしょうね。

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【2019/06/06 18:30】 | 史跡巡り
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