西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
先日のゴールデンウィークに久しぶりに鹿児島に行ったのですが、九州新幹線の影響でしょうか、ものすごく観光客が増えていますね。
昔、私は大阪から鹿児島に行き帰りともに夜行バスで行ったくちですが、あの頃と比べると、新幹線による利便性の向上で、爆発的に観光客が増えているような気がします。

例えば、私が好きでよく行くトンカツ屋が鹿児島市内にあるのですが、開店前に行ったにもかかわらず、観光客が押し寄せており、入店するのに約一時間待ちました。。。
また、観光ガイドブックに掲載されている有名ラーメン店も長蛇の列が出来ていましたし、どことは言いませんが、私から言わせれば、全然味的に大したことのないお店(←失礼)にも行列が出来ている始末。
昔はゴールデンウィークとは言え、こんな状況ではありませんでしたから、やっぱり新幹線の影響は大きいですね。
何だか古き良き鹿児島のイメージがどんどん無くなっていくようで、私的には寂しい気がします。

さて、ゴールデンウィークには鹿児島の隣県である、我が愛すべき宮崎県にも行きましたが、鹿児島に比べると、宮崎は空いていますね。
観光客もそれなりに居ますが、やっぱり帰省客の方が多いような気がします。

宮崎に行った際、久しぶりに宮崎市高岡町にある「天ケ城歴史民俗資料館」に行ってきました。
天ケ城は、いわゆる高岡城の別名で、今は宮崎県に属していますが、その昔は薩摩藩領でした。
その名残を示すかのように、高岡町には麓(薩摩藩で言うところの郷士達が居住した武家集落)があり、そして中心には仮屋跡(役所跡)があり、町内には薩摩風の武家屋敷が点在し、また、薩摩藩政当時の関所であった「去川の関」の跡も残されています。

「去川の関」と言えば、こんな逸話を思い浮かべます。
井伊直弼が主導した「安政の大獄」により、当時、薩摩藩の朝廷工作に従事していた京都清水寺成就院住職の月照は、その身が危険となりました。
同じく京都にてその運動を手助けしていた西郷隆盛は、そんな月照を薩摩藩内に庇護しようと計画し、紆余曲折の上、月照は鹿児島に到着しますが、そんな月照に対し、非情にも薩摩藩は国外退去を命じます。
西郷はそのことに絶望し、月照と共に冬の鹿児島の錦江湾に身を投げ、自殺することを決意するのですが、薩摩藩は月照を「東目送り」、つまり東目筋(街道)を通って、高岡にあった「去川の関」から藩外に退去させようと命じたと伝えられています。

ただ、東目送りの話については、余り根拠がなさそうです。
色んな西郷伝には必ずそう書かれていますが、それを示す証拠がないため、あくまでも伝承レベルの話でしょうね。
月照を国外退去させようとしたことは間違いないでしょうが。

ちなみに、去川の関所跡には、昔それを示す大きな石碑が建てられていたのですが、今は案内板のみがある状態です。
と、言うのは、平成17年9月に九州に上陸した台風14号の影響で、石碑が破壊され、大水で流されてしまったんですよね。
実はこの平成17年、私が大阪から宮崎に移り住んだ年だったので、当時のことを鮮明に覚えています。
宮崎市内のほとんどは停電し、家屋も水に浸かる被害が多数出ました。
宮崎県北方の延岡と高千穂を結ぶトロッコ電車の高千穂鉄道は、この台風によって鉄橋が破壊されるなど、大きな被害を被り、廃路になったことは記憶に新しいところです。
私もこんな大きな台風は生まれて初めて経験しました。

少し話がそれましたが、こういった土地柄から、高岡にある「天ケ城歴史民俗資料館」には、薩摩藩関係の資料の展示が少なからずあります。
中でも高岡という土地は、明治期に活躍した医師・高木兼寛の出身地でもありますので、彼に関する資料も展示されています。

余り詳しくは書きませんが、高木兼寛は高岡で生まれ育ち、若き日から蘭学及び医術を学んだ明治期の医師です。
鹿児島の医学ひいては日本の医学界に多大な功績を残したウィリアム・ウィリスにも師事した彼は、後に海軍の軍医総監まで登りつめ、現在の東京慈恵会医科大学の創設者でもあります。

特に、高木の功績として名高いのは、脚気の原因究明についてです。
当時、軍部では兵士が脚気を発病するケースが多く、それをいかに予防するのかが軍医達の喫緊の課題であり、責務であったのですが、高木は脚気の原因を「タンパク質不足」、つまり栄養不足からくると考え、当時軍隊で食されていた白米やパンよりも麦飯を食べて栄養を摂取することを推奨しました。
しかしながら、その彼の主張に対して、陸軍及び医学界(特に東大医学部関係者)からは多くの非難が生じました。
特に有名なのが当時陸軍の軍医であった森鴎外がその説を強烈に否定したことです。
森は、脚気は「病原菌」から発病すると主張し、高木の説を一蹴したのです。

このようにして、高木が所属した海軍と陸軍及び東大医学部派閥の脚気の原因を巡る対立が生じたわけですが、結論から言えば、実はこの両者ともその主張は誤りであったのです。
脚気という病気は、高木が主張したタンパク質不足からでも、森が主張した病原菌からくるものではなく、ビタミンB1不足から生じる病気であったのです。
しかしながら、高木が持論を展開した栄養不足は、森らが主張した病原菌説に比べて、総じて間違いではなかったわけです。
高木が推奨した麦飯は、ビタミン豊富な食材であり、結果的に脚気の減少に一役買うことになりました。

以上のようなことから、高木兼寛は「ビタミンの父」と呼ばれるようになったのですが、これまで書いてきたように、彼がビタミンを発見したというわけではありません。
当時はビタミンという概念は未だ無かったわけですからね。
高木は脚気を栄養不足からくるものだと主張し、後のビタミン発見への道筋を作ったということから、彼は「ビタミンの父」と呼ばれるようになったのでしょう。

高木兼寛の生涯については、作家の吉村昭さんが『白い航跡』という著作を遺されていますので、興味のある方は是非読んでみてください。
あっ、ちなみに高岡町にある道の駅は、「ビタミン館」という名が付けられています。
ビタミン館だなんて、「薬局と間違えられるんじゃないか?」と、その前を車で通るたび、いつも要らぬ心配をしています(笑)。

※画像は、天ケ城(高岡城)です。

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【2014/06/03 12:37】 | 旅行
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