西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
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先日、生まれて初めて、鳥取砂丘に行ってきました。
その昔、米子や大山(だいせん)には行ったことがあったのですが、今回初めて鳥取砂丘を中心として、鳥取市内を巡りました。
大阪から高速で約3時間半。
鳥取自動車道が全線開通して、ほんと近くなりましたよね。

今回のメインは温泉と鳥取砂丘を見に行くことだったのですが、後で聞いたところによると、何でも鳥取砂丘は、日本三大がっかりスポットだとか(苦笑)。
しかし、僕的にはすごく楽しかったですね。
エジプトどころか、砂漠と名のついたものに行ったこともありませんから、あれだけ広大な砂浜を見て、少し感動しました。
がっかりと言えば、鹿児島にある日本三大砂丘の一つである「吹上浜」の方ががっかりですよ。
果たして、あれは砂丘と呼べるんですかね?(←鹿児島の方、すいません^^;)

鳥取砂丘ではラクダに乗ることはありませんでしたが(乗るだけで500円、歩くと2000円なんてボッタクリです!←鳥取の方、すいません^^;)、心地良い風を感じながら日本海の風景が楽しめて、とても楽しかったです。
そうそう、鳥取砂丘に行く際は、サングラスとサンダル(もしくは長靴)を用意するのを忘れずに!
風が強いのと普通の靴では砂だらけになってしまいますから。
あと、夏は避けた方が無難ですね。(5月でも砂が焼けるように暑かったくらいですから)

私の場合、旅行と言えば、必ず幕末を絡めて行きたがるのですが、鳥取市に関して言えば、幕末関係の史跡は、ほぼ皆無に近かったです。
鳥取藩と言えば、池田家、そして幕末当時の藩主は、徳川慶喜の兄である池田慶徳ですが、彼に関係する史跡は残されていませんでした。
「鳥取市歴史博物館」にも足を運びましたが、幕末・維新に関する展示は、わずかパネル2枚だけでしたし(^^;
その昔、会津藩に関するテーマ随筆「会津藩と薩摩藩の関係-「会津藩馬揃え」を中心に-会津と薩摩はなぜ提携するに到ったか?」を書いた際に、『贈従一位池田慶徳公御伝記』をかなり読みましたが、慶徳は文久期の京都政局における重要なキーマンなんですけどね。
会津藩による「天覧の馬揃え」が行われるきっかけを作ったのも慶徳ですし。

さて、鳥取は三朝温泉や皆生温泉、はわい温泉など、有名な温泉街がたくさんありますが、今回はマイナーなひなびた温泉街に宿泊しました。
でも、料理も美味しかったですし、温泉も良い具合で大満足でした。
帰路には市内の回転寿司屋に入りましたが、日本海に近いので、魚が新鮮で美味しいですね~。
また、いつか鳥取に行ってみたいと思います(^^)

※画像は、鳥取砂丘と私です(笑)。

14022899300670.jpg

【2014/06/10 12:56】 | 旅行
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tsubuさん、若い!!
華燦めく
こんにちは
時々うかがっておりましたが
お忙しくなさっていらっしゃったのですね。

砂丘でのtsubuさん、
お若いですね!
我が家の息子とほぼ同年なのですから
当然と言えば当然なのですが。
お書きになった作品の数々から
考えのしっかりした完璧な人物を
想像してしまいます。

島津斉彬のお母さんが鳥取藩の出では
なかったでしょうか?
この方が長命であれば
斉彬はもっと活躍できたのではないかと
残念でなりませんでした。
でも、母方の実家も相続で揉めたことを思うと
因縁を感じずにはいられません。
当時としては仕方のないことでしょうが、
骨肉の争いは辛いですね。

何はともあれ、お元気でエンジョイ
なさっていらっしゃるお姿を拝見できて
安心いたしました。

また、気が向かれたらブログを更新して
近況をお教えください。
楽しみにしております。

ご無沙汰しています
tsubu
華燦めくさん、こんにちは!

全然若くないですよ!
40代のド中年ですから(^^;
でも、若いと言って頂けて嬉しいです。
ありがとうございます!

うっかり書くのを忘れてしまいましたが、そうでしたね。
おっしゃるとおり、斉彬の母・周子(賢章院)は、鳥取藩の出身ですね。
斉彬が幕末期にあれだけ英明君主であったと言われた所以は、この賢章院の教育の賜物であると思います。
言い伝えでは、賢章院は斉彬の教育を乳母に任せず、自ら英才教育を施したと言われていますね。
斉彬はこの母と曾祖父の重豪の影響を大きく受けて育っていると言えましょう。

賢章院は34歳の若さでこの世を去っていますが、死に際して、斉彬に対し、下記のような遺言をしたと伝わっています。

慈眼、返照す回光の日
誤って父母の名を穢すことなかれ

母として、最後まで斉彬の行く末を案じていたことが分かりますね。
斉彬はその母に対して、次のような歌を詠んでいます。

有明のかたぶく月ともろともに 雲かくれぬる君ぞこひしき

最愛の母を亡くした斉彬の気持ちが、よくあらわれている歌だと思います。

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この記事へのコメント
tsubuさん、若い!!
こんにちは
時々うかがっておりましたが
お忙しくなさっていらっしゃったのですね。

砂丘でのtsubuさん、
お若いですね!
我が家の息子とほぼ同年なのですから
当然と言えば当然なのですが。
お書きになった作品の数々から
考えのしっかりした完璧な人物を
想像してしまいます。

島津斉彬のお母さんが鳥取藩の出では
なかったでしょうか?
この方が長命であれば
斉彬はもっと活躍できたのではないかと
残念でなりませんでした。
でも、母方の実家も相続で揉めたことを思うと
因縁を感じずにはいられません。
当時としては仕方のないことでしょうが、
骨肉の争いは辛いですね。

何はともあれ、お元気でエンジョイ
なさっていらっしゃるお姿を拝見できて
安心いたしました。

また、気が向かれたらブログを更新して
近況をお教えください。
楽しみにしております。
2014/06/10(Tue) 16:38 | URL  | 華燦めく #-[ 編集]
ご無沙汰しています
華燦めくさん、こんにちは!

全然若くないですよ!
40代のド中年ですから(^^;
でも、若いと言って頂けて嬉しいです。
ありがとうございます!

うっかり書くのを忘れてしまいましたが、そうでしたね。
おっしゃるとおり、斉彬の母・周子(賢章院)は、鳥取藩の出身ですね。
斉彬が幕末期にあれだけ英明君主であったと言われた所以は、この賢章院の教育の賜物であると思います。
言い伝えでは、賢章院は斉彬の教育を乳母に任せず、自ら英才教育を施したと言われていますね。
斉彬はこの母と曾祖父の重豪の影響を大きく受けて育っていると言えましょう。

賢章院は34歳の若さでこの世を去っていますが、死に際して、斉彬に対し、下記のような遺言をしたと伝わっています。

慈眼、返照す回光の日
誤って父母の名を穢すことなかれ

母として、最後まで斉彬の行く末を案じていたことが分かりますね。
斉彬はその母に対して、次のような歌を詠んでいます。

有明のかたぶく月ともろともに 雲かくれぬる君ぞこひしき

最愛の母を亡くした斉彬の気持ちが、よくあらわれている歌だと思います。
2014/06/11(Wed) 12:11 | URL  | tsubu #-[ 編集]
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