西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
宮崎史跡巡りの旅の3回目です。
今回ご紹介するのは、宮崎県に残る薩摩藩の関所跡です。

宮崎県の薩摩藩の関所と言えば、まず思い浮かべられるのが、「去川の関(さるかわのせき)」ではないかと思います。
現在の宮崎市高岡町は、今でこそ宮崎県内に編入されていますが、江戸期には薩摩藩領でした。
そのため、高岡には薩摩藩士が居住して麓を形成していたわけですが、その高岡領から日向へと抜ける高岡筋(日向筋)、いわゆる東目筋には大きな関所が設けられ、そこで入出国する人々を厳しく検査していました。
これが「去川の関」と呼ばれるものなのですが、今回ご紹介するのは、宮崎県えびの市にある「榎田の関」と呼ばれる関所です。

薩摩藩領から他国に出る街道(道筋)と言えば、大きく分けて3つありました。

鹿児島城下から伊集院、川内、出水を通って肥後・水俣に出る出水筋(いわゆる西目筋。小倉筋とも呼ばれる)。
加治木、横川、大口を通って肥後・水俣に出る大口筋。
福山、都城、高岡を通って日向に出る高岡筋(いわゆる東目筋。日向筋とも呼ばれる)。

この3つが主要な街道だったのですが、その他にもいくつか薩摩領内から他国に通じる街道がありました。
「榎田の関」はそんな街道の1つ、加久藤(現在のえびの市)から肥後・人吉に抜ける球磨街道に設置された関所です。

関所で言うならば、西目筋に設けられたのが、有名な「野間の関」です。
高山彦九郎が、「薩摩びと いかにやいかに 刈萱(かるかや)の 関もとざさぬ 世とは知らずや」と、薩摩への入出国の厳しさを歌に詠んだ、あの関所です。
そして、大口筋に設けられたのが「小川内の関」で、東目筋に設けられたのが、先程紹介した「去川の関」なのですが、私自身この3つの関所跡を訪れたことはありましたが、「榎田の関」にはこれまで一度も行ったことがなく、今回初めて宮崎市内から車を飛ばして見に行くことにしました。

宮崎市内から西方のえびの市へは、高速を使えば40分程度で行くことが出来ますが、今回は下道の国道268号線を通り、小林市を抜けてえびのに入るルートで向かいました。
えびの市は、「えびの高原」で有名ですね。
霧島屋久国立公園に位置するえびの高原(標高1200m)は、韓国岳や甑岳といった山々や不動池、六観音御池、白紫池などの火山湖が点在する、とても風光明媚なところです。
秋の行楽シーズンになると、登山を楽しむ人々や紅葉を見に行く観光客で大いに賑わいます。
そんなえびの市に、シーズンオフの夏に、そして史跡巡り目的で行ったのですから、私も変わっていると言えば、変わっています(笑)。

さて、私の目的であった「榎田の関」ですが、鬱蒼とした森の中にひっそりとその跡が残っているのですが、関所の門に使ったであろう石柱がそのまま残されていて、他の関所跡に比べると、十分に往時を想像できる景色を見ることが出来ます。

石柱には「求麻(球磨)口番所」(後年刻まれたものだと思います)と書かれており、ここが薩摩から球磨(人吉)に抜ける玄関口であったことが分かります。
関所の説明板によると、延宝3(1675)年に加久藤郷士15戸の次男・三男を牧ノ原に移住させ、二人ずつ一日交代で番所に勤務させたようですね。

薩摩藩への入出国はとても厳しく取り締まられ、先に紹介した高山彦九郎もその厳しさに閉口したわけですが、全国各地がそういった厳しい取り締まられ方をしていた訳ではないようです。
海音寺潮五郎がどこかに書いていたと記憶していますが、関所手形を持たない人が関所を通ろうとした時、よっぽど不審な人物でない限りは、「ならぬ、ならぬ」と口では言いながら、関所の役人が関所の外に押し出してくれたり、押し入れたりしてくれたことがあったようです。
昔も今も、役人というものは面倒なトラブルを避けたがるものなんでしょうね(笑)。

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「榎田の関」跡

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「求麻口番所」と刻まれた標柱

【2014/09/05 12:02】 | 史跡巡り
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