西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
宮崎史跡巡りの旅の4回目です。
「榎田の関」を見た後、近くの「山椒茶屋」(宮崎では有名なそば屋さんです^^)で昼食をとり、近くの「木崎原(きさきばる)古戦場跡」に向かいました。

「木崎原の戦い」は、南九州の覇権を争う「関ヶ原の戦い」とも呼べる非常に重要な戦いで、元亀3(1572)年5月3日、日向国真幸院木崎原(現在の宮崎県えびの市)において、薩摩の島津家と日向を拠点に勢力を伸ばしていた伊東家が激突した戦いです。
先程「関ヶ原の戦い」と書きましたが、結果的には兵力少数であった島津側が圧倒的な兵数を誇っていた伊東家を打ち破ったため、九州の「桶狭間の合戦」とも言われることがあります。

恥ずかしながら、島津家の話とは言え、私は戦国時代には余り詳しくないため、まずは基礎的な知識を入れようと、「えびの市歴史民俗資料館」を訪れました。
さすがは地元の資料館ですね。館内には、「木崎原の戦い」に関する資料やビデオ上映などが豊富にあり、戦国時代ファンならずとも、なかなか見応えがあります。

少し話がそれますが、実はこの資料館で、西郷隆盛関連の大変珍しい資料を見つけました。

「南洲翁の足軽籠かつぎ飯炊き 西南役従軍 深江権太郎記」

というものなのですが、これがなかなか面白いのです。
資料館のご厚意により、内容をコピーさせて頂いたのですが、この資料は西南戦争において、西郷隆盛や桐野利秋といった薩軍幹部の身の回りの世話をしていた深江権太郎という人物の話を、えびの市に住む深江武夫という人物が聞き、それを書き留めたものなのです。
いわゆる回顧録のようなものですが、西郷の近辺にいた人物の話ですので、西南戦争中の西郷の言動などが詳しく書かれていて、非常に興味深いです。
この資料については、またいずれ機会を見つけて、ご紹介したいと考えています。

さて、「木崎原の戦い」のことですが、300名ほどの少数であった島津兵が、3000名とも伝えられる大多数の伊東兵を完膚無きまでに倒したのは、やはり島津の戦上手と言いましょうか、島津義弘の差配の力が大きかったと言えるかもしれませんね。
この辺りは私もなかなか判断がつかないところですが(詳しい方、是非ご教授下さい)、この戦いに島津家が勝利したことにより、伊東家は衰退の一途を辿り、そして島津家は三州統一という悲願に突き進むことになります。

資料館で一通りの基礎的知識を得た後、私は早速「木崎原古戦場跡」へと向かいました。
古戦場跡は見事と言う他ない、大きな杉の木(写真)が目印として立っているので、すぐに見つけることが出来ます。
古戦場跡には、「木崎原古戦場跡」と書かれた大きな石碑と島津義弘の歌碑、そして島津義弘が多くの戦死者のために建立した「六地蔵塔」があります。
薩摩の古戦場跡には、こういった地蔵塔がたくさんありますね。
これは戦が終わった後は、敵・味方隔てることなく、戦死者を弔う薩摩の士風からくるものです。
250年以上前には血なまぐさい戦が繰り広げられた場所も、今ではのどかな田園風景が広がっています。

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「木崎原古戦場跡」碑

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「島津義弘歌碑」

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古戦場跡にある大きな杉の木

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「六地蔵塔」

【2014/09/11 12:43】 | 史跡巡り
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