西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
今年のゴールデンウィークは、いつものように宮崎に帰っていたのですが、今回は少し遠出して、大分県佐伯市(さいきし)に行ってきました。
佐伯市と言えば、大分県の中でも新鮮な海の幸が味わえる港町として有名ですね。
もちろん地元で有名な寿司店で海の幸は存分に味わいましたが、忘れてはならないもう一つの名物である「ごまだしうどん」もちゃんと食べてきました。

「ごまだしうどん」とは、『ごまだし』と呼ばれる、魚のすり身や胡麻、醤油などを一緒にすり潰したペースト状の調味料を温かいうどん(冷たいのでもOKです)に溶かして食べるものなのですが、これがすごく美味しいです(^^)
『ごまだし』がうどんの出汁に深いコクを加えると言うか、ほんとクセになる味ですよ。
「名物に旨いものなし」なんて言いますが、「ごまだしうどん」は美味しい名物だと思います。

少し食べ物の話に偏りましたが、今回宮崎からわざわざ佐伯まで足を運んだのは、ゴールデンウィーク中の5月1日に、「佐伯市歴史資料館」が開館したというニュースを聞いたからです。
宮崎から大分への車のアクセスは、東九州自動車道の開通により、格段に良くなりました。
宮崎市から佐伯市までは、高速で約2時間半もあれば行けます。
ほんと便利になりましたよね。

私も佐伯を訪れるまで知らなかったのですが、佐伯という町は、藩政時代は佐伯藩と岡藩に分割されていた土地でした。
まず、先に岡藩のことから簡単に書くと、佐伯藩が佐伯の海側の中心部に城下町を形成していたのに対し、岡藩は佐伯市の南方、山側の宇目を領地に持っていた七万石の小藩です。
ただ、岡藩の城下町は、佐伯市の西方にある現在の大分県竹田市にありました。
私も何度か訪れましたが、竹田は豊後の小京都と呼ばれ、風情のある佇まいを今に残しています。
秋の紅葉の季節になると、岡城のモミジはとても鮮やかで綺麗ですよ。
「荒城の月」で知られる作曲家の滝廉太郎や日露戦争の英雄として崇められた広瀬武夫も竹田の生まれです。
また、幕末期の岡藩には小河一敏という人物が出て、西郷隆盛とも交流を持ち、寺田屋事件に間接的に関与するなどしたことでも有名ですが、一方の佐伯藩は余りその名が知られていません。

佐伯藩は、石高わずか二万石の小藩で、歴代城主は毛利氏でした。
毛利と言うと、長州藩の毛利家を想像しますが、佐伯藩は長州藩の分家であったというわけではありません。
ただ、佐伯毛利氏と長州毛利氏が全く関係が無かったというわけでもないのです。
佐伯藩の始祖となる毛利高政は、戦国時代においては豊臣秀吉配下の武将で、旧姓は森と言ったのですが、本能寺の変後、秀吉が明智光秀を討つために仕掛けた「中国大返し」と呼ばれる、当時敵対していた毛利方と和睦し、取って返すかのごとく上京策を取った際、高政は毛利方の人質となりました。
その際、毛利家の当主・輝元が高政の器量を気に入り、「毛利と森は名が同じようなものだから、今後は毛利と名乗れ」みたいな話をしたそうです。
それが縁となって、以後、高政は毛利姓を名乗ることとなったようです。
なかなか面白いですね。

その後の高政ですが、「関ヶ原の戦い」では石田三成方の西軍に付きますが、戦後は親交の深かった藤堂高虎の取り成しで許され、佐伯二万石の大名となります。
西軍に付いた武将の多くが改易や領地削減の憂き目にあう中、二万石を安堵されたのですから、破格の扱いを受けたと言っても過言ではないでしょうね。
このような形で高政は佐伯二万石を手に入れるのですが、毛利氏はその後も明治4(1871)年の廃藩に至るまで、佐伯の領主として君臨しました。

と、ここまで佐伯の歴史を簡単に書きましたが、いわゆる佐伯の歴史は毛利氏の歴史というわけで、その佐伯市に佐伯毛利氏の資料をふんだんに集める、「佐伯市歴史資料館」が開館しました。
オープンしてから数日後に見学したのですが、とても素晴らしい資料館でした。
なぜならば、展示されている資料のほとんど全てが「原資料」であったからです。
つまり、資料館にありがちの複製(レプリカ)の展示品がほとんどなく、生の資料が展示されており、それを間近で見られるのは、ほんと素晴らしいことですね。
(歴史資料館と名付けながら、展示品のほとんどがレプリカだらけのところは正直うんざりします)

佐伯市歴史資料館には毛利氏から受け継いだ貴重な資料が展示されていますが、特に幕末関係で言うならば、『亜墨利加条約写』という貴重な資料が展示されています。
これは1854(嘉永7)年3月に結ばれた日米和親条約の写しです。
この資料には「伊勢守殿御渡」と書かれているのですが、つまり、当時の筆頭老中であった阿部伊勢守正弘が、当時の佐伯藩主・毛利高泰に対して渡したものということですね。
日米和親条約締結後、諸大名に対して渡した条約内容の写しの一枚というわけです。

嘉永6(1853)年6月のペリーの来航により、幕府は「攘夷」か「開国」かという究極の二者選択の決断を迫られることになりますが、当時老中首座であった阿部正弘は、ペリー来航直後の嘉永6(1853)年6月26日、寺社奉行など評定所一座及び大番頭など三番頭に、27日には彦根藩や会津藩などの溜間詰大名に、7月1日には外様大名の薩摩藩など大広間詰等の諸大名に対して、ペリーが持参したアメリカ大統領・フィルモアの親書の訳文を回覧し、アメリカの開国要求に対し、幅広い意見を求める政策に出ました。
幕府が対外政策について、広く諸大名にまで意見を求めたのは、江戸幕府始まって以来、これが初めてのことです。
このことをもってしても、阿部正弘が間近に迫った国難に対し、いかに危機感を持って対処しようとしたことが分かるかと思います。

佐伯市歴史資料館に展示されている『亜墨利加条約写』は、そんな緊迫した時節を感じさせてくれるような、とても貴重な資料だと思いますので、佐伯に足を運ばれた際には、是非一度見て頂きたいものです。

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佐伯城三の丸櫓門

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佐伯市歴史資料館

【2015/05/12 17:24】 | 旅行
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