西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
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 五代友厚の講座を聞きに行ったのが8月26日(金)のことですが、一日はさんで、28日(日)は、大阪龍馬会主催の歴史作家・桐野作人先生の講演「薩長同盟論の現在」を聞きに行ってきました。

 桐野作人先生と言えば、何と言っても、南日本新聞連載の「さつま人国誌」です。
 鹿児島の新聞社・南日本新聞に連載中の「さつま人国誌」は、鹿児島県出水市出身の歴史作家・桐野作人先生が執筆されている鹿児島県の歴史に関する連載ですが、これがものすごく面白く、大変勉強になります。私のような薩摩藩関係の歴史が好きな方なら必読の読み物だと思います。

南日本新聞連載「さつま人国誌」
http://373news.com/_bunka/jikokushi/

 まず、この「さつま人国誌」の何がスゴイのかと言いますと、記事に書かれている全ての事項について、ちゃんとした根拠史料を明示し、その史料を裏付けにした上で詳しい検証が行われているだけでなく、それに加えて、桐野先生独自の解釈や歴史観もプラスされているということです。
 そのため、とても面白く読めますし、大変勉強になります。

 この「さつま人国誌」を読むと分かりますが、桐野先生の持たれている圧倒的な知識量とその該博さには、驚きを禁じ得ません。
 現代の歴史作家の中で言えば、おそらく桐野先生は、薩摩藩の歴史のことを一番理解されている方なのではないでしょうか。
 とにかく「さつま人国誌」は必読の書だと思います。
 既にご存じの方も多いかとは思いますが、先に紹介したURLからネットでも読めるようになっていますので、是非一度読んでみてください。
 また、それをまとめた単行本も刊行されていますので超オススメです!

 と、言う訳で、その桐野先生の講演会が大阪で開かれ、かつ内容も「薩長同盟に関すること」と聞いたら、行かない選択肢はありません。
 私自身は大阪龍馬会に所属しているわけではありませんが、すぐに申し込みをしました。

 講演会が開かれた場所は、大阪の本町と堺筋本町の間にある「AAホール」というところで、私も初めて行ったのですが、何とその隣りは、幕末の頃、勝海舟が大坂に開いた「海軍塾」があった場所と言うのですから、龍馬ファンの方々に対しては、何とも粋な計らいですね。
 大阪龍馬会主催の講演会には、以前にも一度参加したことがあるのですが、会場には30名ほどの方がいらしており、熱気でムンムンでした。少し聞き耳を立ててみると、参加者の方々が口にする言葉は、「龍馬」や「幕末」、「石碑」などなど、幕末関係のことばかり。さすがは大阪龍馬会の講演会だなあ、と私は感心しきりでした。

 さて、講演に先立って配付されたレジュメは、B4サイズで何と11枚!
 また、裏表を使用して、薩長同盟に関する参考資料がびっしりと貼り付けられています。これを読むだけでも、異常なまでにテンションが上がってきました。

 さて、講演の内容についてですが、全てを書くのは難しいので、かいつまんで要点だけを書きたいと思います。
 講演のタイトルは「薩長同盟論の現在」と付けられ、最初は薩長同盟締結の地とも言える「御花畑(おはなばたけ)」のことから話が始まりました。

 現在、鹿児島県歴史資料センター黎明館で開催されている下記企画展「幕末薩摩外交-情報収集の担い手たち-」の一番の目玉として展示されているのが、近衛家の別邸で、薩摩藩家老の小松帯刀が宿舎としていた「御花畑」の絵図です。


幕末薩摩外交-情報収集の担い手たち-
開催期間:平成28年5月24日(火)~9月11日(日)
場所:鹿児島県歴史資料センター黎明館3階企画展示室

https://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/


 近年、薩長同盟が締結された場所は、小松帯刀が宿舎としていた近衛家の別邸「御花畑」であることが確認され、また、その場所や規模等が特定されました。
 鹿児島県歴史資料センター黎明館が所蔵している数多くの史料の中に、「玉里島津家史料」というものがありますが、今年に入り、この史料の中に「御花畑」の絵図があることが確認され、その絵図が今回の企画展で展示されています。
 これはまた後で予定している宮崎・鹿児島の旅編でも書きますが、私も8月に鹿児島を訪れた際、この絵図を見ましたが、地図からでも十分想像できるほど、とても立派な建物です。

 この「御花畑」は、小松の宿舎というだけではなく、準藩邸的な使われ方をしており、一種迎賓館的な側面もあった建物です。
 2016年8月8日付けの「さつま人国誌」(第421回)にも書かれていますが、桐野先生は随分以前からこの御花畑があった場所を探されており、2008年、薩摩藩士であった葛城彦一の伝記『薩藩維新秘史 葛城彦一伝』の中に、「近衛家室町頭之御花畠御屋敷」という記述を発見し、御花畑が「室町頭」にあるのを突き止められたのを皮切りに、「御花畑」の研究は一気に加速して進むことになったのですが、それらの経緯や最新情報などについて、講演で詳しくお話が聞けました。

 そして、次に本題の薩長同盟論に入っていったわけですが、薩長融和の動きは随分早い段階からあったという話から始まり、薩長同盟の締結日、そしてその性質などについて詳しいお話が聞けたのですが、一番印象深かったのは、

「なぜ薩長同盟の合意文書が存在しないのか?」

 という点でした。

 私も随分以前から疑問に感じていたことでしたが、薩長同盟というのは、薩摩藩と長州藩がお互いに交わした合意文書(協定書や調印した文書)が存在しません。
 唯一あるのは、慶應2(1866)年1月23日、長州藩の木戸孝允が土佐脱藩浪士の坂本龍馬に宛てた書簡、これはとても有名な書簡ですが、木戸が京都で結ばれた六ヶ条の薩長同盟の内容を詳しく記し、龍馬にその内容を保障してもらう意味で、裏書きを求めたものです。(後に龍馬が朱書きで裏書きして返送しました)
 薩長同盟の内容が分かる文書は、実はこの木戸の龍馬宛ての書簡のみしか無く、その他には一切文書の類は存在していません。
 この書簡については、2003年10月、鹿児島県歴史資料センター黎明館で開かれた特別展「激動の明治維新」で実物が展示され、私もその時初めて実物を見ましたが、現在でも、龍馬が裏書きを記した朱色の文字が鮮やかに残っており、感動したのを覚えています。

 少し話がそれましたが、薩長お互いの合意文書が存在しないことから、いわゆる「薩長同盟」というものは、それほど重い同盟ではなく、長州藩が薩摩藩に対して一方的に求めた、いわゆる薩摩藩の片務的な義務を書いただけの同盟であったとする説があります。
 合意文書が存在しないのは、そのことが原因だったということですが、果たしてそうと言えるでしょうか?
 桐野先生は、当時の薩摩藩の方針(いわゆる島津久光の方針)と薩摩藩と木戸との間で交わされた合意内容に、大きな齟齬(隔たり)があったことが原因で、薩長の合意文書が作成されなかったのではないかと、その背景を詳しく語られましたが、まさしく溜飲の下がる思いで、私はそれを聞いていました。

 これは幕末当時の西郷に見られる行動パターンの一つですが、西郷という人は、独断専行の気がある人物です。
 西郷の生涯をつぶさに見ていると、藩の方針、つまり久光の命令から逸脱した行為を独断で行おうとしているケースが、しばしば見受けられます。
 そのことが原因で、西郷は処罰され、沖永良部島に遠島となった経歴もあるわけですが、同島から帰藩後も、多少はマシになり、表向きは久光の方針には従いながらも、肝心な時には、独断で事を進める傾向が出てきます。
 いわゆるこれは西郷のクセのようなものですね(笑)。

 越前福井藩主であった松平春嶽は、そんな西郷の気性を表すべく、西郷の師であり、君主でもあった薩摩藩主・島津斉彬が西郷のことを、「独立の気象(気性)あるが故に、彼を使う者私ならではあるまじく」と語ったという逸話を語り残していますが、まさしく西郷という人物は、独断専行で果断に事を進める傾向のある人物だったと思います。

 桐野先生は、薩長同盟が締結される約1ヶ月前、慶應元(1865)年12月18日、薩摩から家老の桂久武が上京してきたのは、当時京都藩邸に居た西郷を中心とした重役達が、ややもすれば自分の意志とは反する行動に出ていると知ったため、彼らの行動を軌道修正するべく、自分の考えや方針を守り、命令を遵法させるための意図があったということを根拠資料を交えながら丁寧に語られていました。
 通常は国詰めの家老であった桂が、わざわざ薩摩から上京してきたのは、当時京都に居た西郷が、また勝手な行動に突っ走らないかどうかを監視させる意味もあったということです。

 ここからは、直接的には桐野先生の講演の内容ではなく、今回の講演を聞いた上で、私が感じたこと、考えたことなどを交えて書きたいと思いますが、薩長同盟と言うのは、木戸が帰国する間際(直前)に慌ただしく口頭で合意したものであったため、文書には残っていない、というのが真相に最も近いのではないかと思います。
 私が薩長同盟締結について最も重要だと考えているポイントは、先程紹介した木戸が坂本龍馬に裏書きを求めた書簡の中に、龍馬自身が、

「表に御記被成候六條は小西両氏及び老兄龍等も御同席にて議論せし所にて毛も相違無之候」

 と書いている部分です。

 坂本龍馬が、

「(木戸が)表に記載した六ヶ条の盟約の内容は、小松帯刀と西郷の二人と木戸と自分が同席して話した内容に寸分も間違いありません」

 と書いた箇所ですが、龍馬の文面をそのまま理解するならば、薩長同盟締結の際に同席した薩摩藩関係者は、小松と西郷の二人だけだったということになります。
 当時は、小松と西郷の他にも、大久保や吉井(幸輔)、桂、奈良原(繁)なんかも居たにも関わらず、小松と西郷の二人だけが同盟締結の場に同席したというのは、どうも不自然な印象を持ちます。

 『桂久武日記』という史料集が鹿児島県立図書館から刊行されていますが、その中の慶應2(1866)年1月18日の項に、「小松家(御花畑のこと)に居た木戸から会って話がしたいとの誘いを受け、そこに島津伊勢(薩摩藩家老)、西郷、大久保、吉井、奈良原らも集まり、皆で国事について話し合った」と書かれているのですが、おそらくこの席上で同盟の話は出たのではないでしょうか。
 しかしながら、これだけ薩摩藩の重役達が揃いながらも、この日に同盟は結ばれませんでした。
 なぜならば、話が相当揉めたからだと思います。

 桐野先生が講演で話されていましたが、久光の考える方針とは、寛大な長州処分を引き出すことにより、長州藩がそれを受諾し、第二次長州征伐を回避することにあったわけですが、その一方で、長州藩を代表して上京してきた木戸の考えは違いました。
 木戸はいかなる処分も受けるつもりは毛頭なく、一歩も引かず、幕府との対決は止む無し、という考え方だったからです。

 最新の2016年9月5日付け「さつま人国誌」(第425回)「薩長同盟の成立(下)」において、桐野先生が『吉川経幹周旋記四』の記述を元に書いていますが、


「木戸の申し分は、昨年の首級(禁門の変の責任者として三家老と四参謀の首級を差し出したこと)によってすべて完了したと述べて、長州処分を遵奉する口ぶりではなかったので、西郷から今日はまずこれを忍ぶべきである。他日、雲霧が晴れて、(久光公が)ご上京の節に(長州への寛大な処分を)嘆願したいと伝えたが、(木戸は)同意する色を見せなかったという」
(「さつま人国誌」(第425回)より抜粋)


 木戸は以上のようなで考え方であったため、久光の方針(長州征伐回避論)と木戸の考え(幕長決戦論)には、当然大きな差があり、薩摩藩関係者としては、久光の意向を逸脱した、長州藩を支援するような軍事的な同盟は結べなかったというのが真相だと桐野先生は語られていましたが、まさしくその通りだと思います。

 桂の日記には、その日は「深更迄相咄」と書かれており、話は深夜まで及んだことが窺えますので、両者の間でかなりの長時間話し合いが続いたが、結局は物別れに終わったというのが真相ではないでしょうか。
 また、もう少し考察するならば、この会合に出席していた奈良原喜八郎(後の繁)という人物は、いわゆる久光の意向を信奉し、忠実に実行する、言葉は悪いですが久光の僕(しもべ)のような存在であり、後年、西郷や大久保と事ある毎に意見が相違し、衝突した人物です。
 彼はいわゆる藩内における保守派の代表的人物であった人ですから、おそらく彼が席上に居ては、まとまる話もまとまらなかっただろうな、とそんな風に私は感じています。

 この慶應2(1866)年1月18日~19日深夜にかけて行われた御花畑での話し合いは、薩長同盟の事前交渉であったと考えるべきでしょうね。
 しかしながら、木戸はここで薩摩藩との考え方に大きな溝があることを悟り、帰国の決意を抱きます。
 このまま京都に居ても話し合いは平行線に終わると踏んだからでしょう。

 そして、いよいよここで坂本龍馬の登場です。
 龍馬は翌1月20日に薩摩藩の二本松藩邸に入るわけですが、おそらくその足で木戸の元を訪ね、18日から19日の深夜にかけて話し合われた内容を聞いたのではないでしょうか。
 そして、当然、龍馬は西郷の元を訪れたはずです。
 全くの想像ですが、木戸は翌21日に京都を去る予定になっていましたので、龍馬は「このまま木戸を手ぶらで帰しても良いのか」みたいな話を西郷にしたやもしれません。
 龍馬に言われるまでもなく、おそらく西郷もそして一番の同志でもある大久保も、そのことを相当悩んでいたのではないでしょうか。
 木戸の考え方に同調して長州支援の軍事的な同盟を結ぶことは、いわゆる久光の方針(趣旨)に反することにも繋がるからです。

 先程紹介した『桂久武日記』の1月20日の項に、桂が「体調不良のため、木戸の送別会(「別盃」と書かれています)に出られないということを大久保が西郷に会うようなので言付けた」という記述が出てきますが、この記述からも、大久保は何らかの理由で西郷と会う約束をしていたことが窺えます。
 おそらくですが、大久保自身も、このまま木戸を長州に帰すべきかどうかを思案していたのではないでしょうか。

 そして、翌21日、事態は急転直下します。
 小松帯刀と西郷の二人と木戸と龍馬が同席のうえ、御花畑において、六ヶ条の薩長同盟が無事に結ばれたのです。
 ここに大久保が入っていないのは、大久保も木戸と一緒に帰国するメンバーに入っており、忙しかったからだと理解できなくもないですが、想像を膨らませるならば、大久保の役回りは、奈良原ら保守派の押さえに動いていたからだと考えられなくもありません。

 また、もっと想像するならば、西郷との話し合いで、久光の意思に反する軍事的側面が強い同盟を結ぶため、どちらに転んでも(つまり、結果的に久光の怒りを買ったとしても)、どちらかが生き残れるようにしたのかもしれません。
 これはあくまでも想像ですが、寺田屋事件前の二人のやり取りの前例もありますから、あり得ない話では無いと思います。

 また、桐野先生も講演で話されていましたが、薩長同盟締結の場に小松が立ち会ったのは非常に重要だったということです。
 おそらく西郷と大久保は、最終的な結論を小松に相談して委ねたのでしょう。木戸の考える方向性を飲んで同盟を結んで良いかどうかを小松に相談したということです。
 小松自身は、久光の考える方針から逸脱していることは認識していながらも、結果的には木戸が帰国する直前に、おそらくGOサインを出したのでしょうね。
 小松としては、久光に対して何とか言い訳が出来るレベルだと考えたのかもしれません。
 以上のように考えると、薩長同盟を結ぶかどうかのイニシアチブは、西郷や大久保ではなく、実は小松が握っていたと考えるべきだと思います。

 これは私の持論でもありますが、西郷や大久保は、当時は薩摩藩の重役の身分にあったとは言え、それは「一代限りの特例」であり、結局、藩を動かすことが出来るのは、小松や桂といった門閥家老であったということは、絶対に押さえておかなければならない事実だと思います。
 西郷や大久保がいかに藩士達に慕われていたとしても、小松や桂の協力なしには、何も出来なかったというのが現実だったのです。
 それは、後の倒幕のための挙兵を画策するに際しても言えることです。

 そして、坂本龍馬ですが、「実は、龍馬は薩長同盟には余り関与しなかった」みたいなことを言われた時期がありましたが、これまで書きましたとおり、薩長同盟の締結にあたっては、龍馬も非常に重要な役回りを演じたことは明白だと思います。
 これも想像ですが、「木戸の帰国」という、最悪のシナリオを前にして、龍馬が薩摩藩関係者に働きかけたことが、最終的に小松のOKが出た要因になったとも考えられるからです。

 小松と西郷は、帰国する間際の木戸を呼び止めたかどうかまでは分かりませんが、とにかく木戸が帰る直前に最後の話し合いを持ち、とても慌ただしかったでしょうが、お互いに口頭で了承に至ったのが、「薩長同盟」であったと考えるのが、最も素直に理解できるような気がします。
 このような別れ間際に短時間で話をまとめた同盟であったため、木戸は後日それが履行されるかどうか不安に思い(この辺りが神経質な木戸らしいと思いませんか?)、龍馬に裏書きを求める書簡を送った、という風に考えるのが、一番理解しやすいように思います。

 と、ものすごく長くなりましたが、今回の桐野先生の講演会を聞いて、これまで頭の中にあったモヤモヤが一気に晴れたような気がしました。
 今回の講演は、午後1時半前から始まり、午後5時過ぎまで、途中10分間の休憩を挟んで3時間半以上ありましたが、余りにも面白くて、アッという間に時間が過ぎ去りました。
 このような講演なら、24時間でも聴いていられますね。いつまでも聞いていたい感覚を持ちましたし、とても貴重な話が聞けたと思っています。

 しかし、私のホームページもだいぶ書き直さなくてはならない時期にきましたね。結構間違いが多いような気がします(^^;

14732170131170.jpg
講演「薩長同盟の現在」の様子

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【2016/09/07 12:25】 | 幕末・維新
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