西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
 7月は別府、そして8月は宮崎・鹿児島に行くのが、最近では私の夏のルーティーンのようになっています。
 今年も8月のお盆休みを利用して、宮崎・鹿児島に行ってきましたので、今回からその旅行記を書きたいと思います。

 別府と同様に、今回も神戸からフェリーに車を乗せて、まずは一路宮崎へと向かいました。
 神戸から宮崎へは「宮崎カーフェリー」という船会社がフェリーを運航しています。
 ただ、個人的な見解ですが、船内設備や乗客に対するサービスの点から比較すると、同じ九州でも大分や鹿児島に向けて就航している「フェリーさんふらわあ」の方が、宮崎カーフェリーよりも断然上だと思います。
 私はこれまで宮崎カーフェリーを何十回と利用しましたが、まず船賃が他のフェリー会社に比べて割高なのに加え、船体が古いため部屋や設備が汚い、そして係員の態度や対応が余り良くないなど、サービスの点がイマイチと思えるからです。

 と、またもや話がそれてしまいそうになりましたが、今回の宮崎・鹿児島旅のメインは、鹿児島イベント情報にも掲載していますが、鹿児島県歴史資料センター黎明館で開催されていた企画展『幕末薩摩外交-情報収集の担い手たち-』を見学することと、それに併せて開催された『青少年「薩長同盟」フォーラム』という催し物を観覧することでした。

 鹿児島へはいつものとおり宮崎を拠点にして車で向かいましたが、今回は鹿児島市内に入る前に、霧島市国分の「敷根火薬製造所跡」に立ち寄る計画を立てました。
 鹿児島県霧島市国分の敷根火薬製造所跡については、その存在は随分以前から知ってはいたのですが、なかなか訪れる機会に恵まれませんでした。
 また、先日紹介した南日本新聞連載の「さつま人国誌」に、同火薬製造所に関する記事(後述)が掲載され、それを読んで以来、日増しに行きたい気持ちは高じていました。
 そのため、今回鹿児島市内に入る前に国分に立ち寄り、同火薬製造所跡を訪ねることにしたのですが、現地に行ってみると、特に案内板も設置されていなかったため、場所が分からず大変苦労しました。
 ネット上で見つけた簡単な地図を頼りに、取りあえず国分の敷根周辺まで車で行き、車を駐車してから、該当する場所と考えられるところに向かって、田んぼのあぜ道を歩いて行ったのですが、なかなか火薬製造所らしき跡は見つかりません……。
 当日の鹿児島は30度を超える猛暑日……。滝のように汗が流れ、着ていた服はまたたく間にびしょ濡れになりました。
 さて、どうしたものか……と、田んぼの真ん中で少し途方に暮れていると、偶然農作業をされていた方が車で通りかかったので場所を尋ねると、何と車で近くまで行けるとのこと!
 急いで車を駐車した場所まで引き返し、教えて頂いた場所へと車で向かいました。

※敷根火薬製造所跡の場所については、最後に簡単な行き方と地図を書いておきたいと思いますので、これから訪れる方は是非参考にして下さい。

 敷根火薬製造所跡の入口には、昭和53年8月に建立された石碑があり、また、その横には由来を示した案内板も建てられています。案内板を見ると、篤姫のイラストが描かれていましたので、おそらく平成20(2008)年に建てられたものでしょう。
 車を降りると、まず大きな水の流れてくる音が聞こえてくることに気づきます。
 実はこの水がとても大事な要素で、近くを流れる高橋川から引いたこの水脈が、敷根火薬製造所の動力となっていました。
 つまり、敷根火薬製造所は水力で操業していたのです。
 それを示すかのように、林の中に入っていくと水路があり、そこには小川のように、今でも勢いよく水が流れています。
 そして、さらに奥へと進むと、水車小屋が設置されていた跡が見えてきます。
 当時の遺構ですが、一段と高くした石組みの水路から、まるで滝のように激しい水が流れ落ちており、それはまさに圧巻の光景です。(画像参照)

14748725508850.jpg

 敷根火薬製造所は、この石組みの水路上に小屋を建て、その中に水車を設置し、その動力を利用して、硫黄や硝石を砕き、火薬の原料としていたのです。
 私はこの水車小屋の跡を見て、少し鳥肌が立ちました。
 とても小さな遺構ですが、それはまさしく薩摩藩が推進した近代工業事業の一端を垣間見る光景であったからです。

 敷根火薬製造所のことについては、私が語るより、下記「さつま人国誌」を読んで頂く方が良いかと思いますが、簡単に概略だけ書きたいと思います。

さつま人国誌(第231回)敷根火薬製造所 西南戦争で破壊、炎上
http://373news.com/_bunka/jikokushi/kiji.php?storyid=1519

 敷根火薬製造所が設置されたのは、文久3(1863)年のことです。
 薩摩藩にとって、文久3(1863)年という年は、大きな転換期となった年であると言えます。
 そうです、7月にイギリス海軍と砲火を交えた「薩英戦争」が起こったからです。
 この薩英戦争により、薩摩藩の藩論は大きく転回したと言っても過言ではないでしょう。
 薩英戦争では、薩摩藩はこれまで築き上げてきた砲台や磯の工業地帯をイギリス艦隊の激しい艦砲射撃により、ことごとく破壊され、城下町は火の海となるなど甚大な被害を被りました。
 薩英戦争により、薩摩藩が失ったものは大きかったと言えますが、それにも増して別の大きな力を得ることになったと言えます。

 それは「西洋技術と知識の導入」です。

 薩摩藩は薩英戦争でイギリスの軍事力の強大さを体感したことにより、これまでの方針を一大転換し、イギリスと密接に繋がることにより、軍艦や武器の購入、留学生の派遣、さらには西洋技術や機器を積極的に導入し、藩内の洋式化を進めることとなるのです。

 敷根火薬製造所が国分に設置されたのが、薩英戦争の前か後かまでは定かではありませんが、おそらく本格的な設置は後だったような気がします。
 薩摩藩は薩英戦争により、イギリス海軍の持つ強力な軍事力をまざまざと見せつけられたわけですから、軍制改革、つまり軍事力と海防の強化は大きな課題となりました。当然、軍事力を強化することに伴い、火薬は必要不可欠な存在となります。

 薩摩藩は、敷根火薬製造所を設置する以前から、既に城下の滝之上に火薬製造所を作っており、また、谷山にも煙硝倉を設けて、火薬製造を行っていました。
 しかしながら、やはり薩英戦争をきっかけとして、大量に火薬を製造できる施設を建造する必要があると感じ、火薬の増産を試みるため、新たに敷根に火薬製造所を設けることとしたのではないでしょうか。
 ちなみに、下記の画像は、島津斉彬が谷山に設けた煙硝倉の跡です。

DSCF0064.jpg

 ただ、「さつま人国誌」にも書かれていますが、敷根での火薬製造は思ったほど上手くはいかなかったようです。
 しかしながら、敷根火薬製造所が、薩摩藩の軍事力の下支えとなったことは間違いないと言えるのではないでしょうか。
 ちなみに、この敷根火薬製造所は、明治10(1877)年の西南戦争で焼失した後は、民間会社が製粉所を作り、操業していたそうです。
 硫黄や硝石を砕く役割を果たした水車が、今度は小麦粉などの食物をひくことになるとは、水車自体も思ってもみなかったことだったのではないでしょうか(笑)。

 平成27(2015)年7月、鹿児島県の磯の集成館などが、「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に認定されたことは記憶に新しいかと思いますが、この敷根火薬製造所跡をそれに加えるべく、追加登録を求める運動があるのだそうです。
 確かに、敷根火薬製造所跡は、日本の産業革命遺産として相応しい、薩摩藩が興した近代工業事業の一端を肌で感じることが出来る、本当に素晴らしい場所だと感じてなりません。

(2)に続く

※敷根火薬製造所への行き方(アクセス)
 宮崎市方面から行くと、まずは国道10号線を鹿児島市内に向けて走ります。
 都城市を過ぎ、そして鹿児島県に入って曽於市を通り抜け、霧島市福山を過ぎると、国分の中心部に入る少し手前に国分南小学校という小学校があるのですが、この国分南小学校前交差点を左折し、県道472号線に入ります。(鹿児島方面から来た場合は、もちろんその交差点を右折です)
 宮崎から鹿児島に向けて国道10号線を走ったことがある方なら分かると思いますが、福山を過ぎて国分に入る前に、ものすごく長い下り坂が続きます。
 「亀割バイパス」という名前の道路だと後で知りましたが、アクセルを踏む必要が全く無いくらい、とにかく長く急な下り坂が続くので、ピンと来られる方も多いのではないでしょうか。
 この長い下り坂を抜けて、ようやく前方に国分の町や海がひらけてきたところにサンクスというコンビニが左手にあるのですが、私はここで間違いなくトイレ休憩をします。そのサンクスがあるのが国分南小学校前交差点です。交差点には歩道橋も設置されているのですぐに分かると思います。
 と、全く関係ない話のようですが、この辺りでトイレ休憩したい方はここですると良いでしょう。意外にそんな人は多いような気がします。(地図1参照)


(地図1)
敷根火薬製造所map1

 さて、宮崎方面から、そのサンクスのある交差点を左折し、県道472号線を走ると、大隅方面に向かう国道220号線に突き当たるのですが、そのすぐ手前に高橋川という川が流れています。その高橋川には橋がかかっており、その左前方に田園地帯が広がって見えるのですが、この付近が敷根火薬製造所があった場所なのです。
 車で行く場合は、高橋川にかかる橋の手前に、農道に降りる小さな道(車で入られる道)がありますので、それを降りて、前方右側に見える山の方に向かって走っていくと、右手に「敷根火薬製造所跡」と彫られた石碑と案内板が設置されており、若干ですが車を止められるスペースもあります。(地図2参照)


(地図2)
敷根火薬製造所map2

(言うまでもありませんが、車を駐車される際は、付近の方々の迷惑にならないよう、マナーはお守りください)

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【2016/09/27 12:15】 | 史跡巡り
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