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 大久保利通の伝記、勝田孫弥『大久保利通伝』(上巻)には、大久保の名前について次のように書かれています。


利通、幼名は正袈裟、後、正助と云ひ一蔵と称す、諱は利済、後、利通と改む、甲東は其号なり
(旧字は改めました)



 大久保に関して言えば、幕末の頃は「一蔵(いちぞう)」、明治後は「利通(としみち)」という呼び名が、最もしっくり来るのではないかと思いますが、前回のブログでも書きましたとおり、西郷隆盛が奄美大島に潜居していた万延元(1860)年の時点では、大久保はまだ「一蔵(いちぞう)」ではなく、「正助(しょうすけ)」と名乗っていました。

 では、一体、大久保はいつ「正助」から「一蔵」へと改名したのか?

 実は私自身、大久保の改名の時期について、これまで余り深く考えたことが無かったため、これを機会に簡単ですが少し調べてみました。

 先に結論から書きますが、残念ながら大久保が「正助」から「一蔵」に改名した詳しい日付までは特定できませんでした。
 ただ、その時期については、かなり絞ることが出来ました。

 まず、大久保の改名の時期を知るにあたって、最初に紹介した勝田孫弥『大久保利通伝』から調べてみましたが、大久保が一蔵に改名した日を特定できる記述は、残念ながらありませんでした。
 ただ、他の様々な史料から総合して判断すると、大久保は、文久元(1861)年12月18日から同年12月27日までの10日間の間に、正助から一蔵に改名したことは間違いなさそうです。
 その根拠について、これから順を追って書きたいと思います。


 大久保の書簡(手紙)が掲載されている『大久保利通文書』を調べてみると、「大久保正助」の名前が出てくる一番最後の書簡は、文久元(1861)年12月14日付けで、筑前浪士の平野国臣(ひらのくにおみ)が大久保に宛てて出したものです。(『大久保利通文書 第一巻』P72)

 その4日前の文久元(1861)年12月10日、平野国臣(当時の変名:藤井五兵衛)は、自ら執筆した倒幕論策とも言える「尊攘英断録」を当時兵を率いて上京することを計画していた島津久光に対して提出することを企て、元薩摩藩士の伊牟田尚平(当時の変名:善積慶介)と共に鹿児島城下に潜入しました。
 薩摩藩政府はその情報を聞きつけると、すぐさま平野たちを拘束しましたが、2日後の12月12日、大久保は平野と面会し、今回の来鹿の目的等を尋ねました。
 そして、その2日後の12月14日、平野は大久保に宛てて書簡を出しているのですが、その時の宛名が「大久保正助」となっています。
 『大久保利通文書』を調べた限り、この書簡以降、大久保正助の名前で出された、もしくは受け取ったものが他に見当たらないため、少なくとも文久元(1861)年12月14日までは、大久保は正助と名乗っていたと推測できます。

 ただ、平野と大久保は、僧月照が薩摩入りした安政5(1858)年11月に、既に面識がある間柄ですので、この文久元(1861)年12月14日の時点で大久保が既に一蔵と改名していたとしても、他藩出身の平野が以前の通称の「正助」と書く可能性も無いとは言い切れません。
 しかしながら、実際に平野が大久保と再会した文久元(1861)年12月12日の段階で、大久保がまだ一蔵に改名していなかったことは確証があります。
 この日、小松帯刀が大久保に宛てた書簡の宛名が、「大久保正助」となっているからです。(立教大学日本史研究会編『大久保利通関係資料 三』P174)

 また、もう少し詳しく調べてみると、平野の伝記である春山育次郎『平野国臣伝』の中に、大久保とは誠忠組の同志であった薩摩藩士・柴山愛次郎が、平野が大久保に書簡を出した同日の12月14日に、平野と共に鹿児島に入った伊牟田尚平宛てに書簡を出していますが、その文中に「正印」という言葉が使われています。
 文字通り「正印」とは「正助」のことを指しており、つまり大久保のことを言っています。
 この書簡には日付の記載が無いのですが、『平野国臣伝』にも書かれているとおり、その文中に「今晩は義士伝読差し越し候」という言葉があることから、文久元(1861)年12月14日付けのものであることは、ほぼ間違いないでしょう。鹿児島城下では、いわゆる「赤穂浪士」が吉良邸に討ち入った12月14日に、『赤穂義士伝』を輪読することが習慣としてあったからです。(現在も伝統行事の一つとして継承されています)
 以上のことから、文久元(1861)年12月14日の段階で、大久保はまだ正助と名乗っていたことは間違いないと思います。

 ちなみに、柴山愛次郎は、後に起こる薩摩藩士同士が相討った「寺田屋事件」で横死することになりますが、どうやら大久保の事を快く思っていなかったようです。前述した伊牟田尚平宛ての書簡の中で、柴山は「正印すかさん男にて」と書いています。
 文字通り捉えれば、柴山は「大久保は好かん男だ」と言っているのです。
 文面から察すると、単なる好き嫌いだけを言っているのではなく、「信用ならない男」みたいなニュアンスも含まれているかとは思いますが、柴山が罵ってこの言葉を使用していることは間違いありません。
 この書簡からも、有馬新七以下、誠忠組の激派と呼ばれた人々と大久保ら久光派との間に大きな確執があったことが想像できます。


(二)に続く

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【2016/11/28 12:30】 | 幕末・維新
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