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 前回は、文久元(1861)年12月14日の段階で、大久保がまだ「正助」を名乗っていた根拠を書きましたが、実はそのわずか22日後の年が明けた文久2(1862)年1月5日、大久保の名前が「一蔵」に改名されていたことが分かる記録があります。

 これは『大久保利通伝』にも引用されているものですが、幕末期、数多くの志士たちを経済的に支援したことでも知られる、下関の豪商・白石正一郎の日記の文久2(1862)年1月5日の項に、次のような記述があります。


正月五日薩州大久保一蔵君上下四人來駕急ニ御上京ナリ
(『維新日乗纂輯1 白石正一郎日記』より抜粋)



 これは、大久保が久光の命を受けて京都に向かう途中、下関の白石邸に立ち寄ったことを示す記録ですが、年が明けて文久2(1862)年になった途端、大久保の名は「正助」ではなく、「一蔵」となっていることに注目すべきです。

 では、なぜこの短期間に大久保が改名することになったのか?

 を考える必要が出てきますが、それは当時の歴史的な背景を押さえる必要がありそうです。


 大久保が改名するに至った、文久元(1861)年末から文久2(1862)年初頭にかけた時期は、薩摩藩主の実父で、当時藩政を掌握していた島津久光が、いよいよ薩摩から中央政局に乗り出そうとしていた時期と重なります。
 この辺りの状況は、次に示す大久保の日記に全てが集約されていると言えます。
 文久元(1861)年12月16日の項に、大久保は次のように書き記しています。


順聖院様御忌日故御廟所エ参詣心祈丹誠ヲ凝シ
大事云々泉公江奉願候處
別而克御都合御深意段々承知仕
感激落涙嗚呼難盡言語
(『大久保利通日記上巻』より抜粋。一部旧字等を変換)



 読みやすくするために改行しましたが、この日は前藩主斉彬の月命日であったことから(斉彬は安政5(1858)年7月16日逝去)、大久保は斉彬(順聖院)の墓所福昌寺に参詣し、心をこめて祈念した後、久光(泉公)に対し、大事云々(久光の率兵上京計画について)を言上したところ、久光が自らの意気込みや考えなどの深意を話してくれたので、言葉には尽くしがたいほどの感激・感動を覚えたと、大久保は書いています。
 おそらく斉彬の月命日にあたり、国政に乗り出す不退転の決意とでも言いましょうか、亡兄斉彬の遺志を受け継ぎ、国事周旋に乗り出す強い決意を、久光は大久保に打ち明けたのでしょう。大久保はそのことを聞いて、感涙にむせんだということです。

 実はこの久光の考えが、前回書いた平野らいわゆる志士連中に、「薩摩藩が倒幕に踏み切る」ものと誤解され、挙句の果てには薩摩藩士同士が京都伏見の寺田屋で斬り合う事件(寺田屋事件)に発展します。
 平野が自ら執筆した倒幕論策「尊攘英断録」を久光に対して提出しようと鹿児島に潜入したのは、こういった理由からなのです。

 大久保の改名から少し話がそれたように感じますが、実は大きく関係があります。
 大久保が「正助」から「一蔵」に改名したのは、この久光の率兵上京計画と密接な関係があると言えるからです。


(三)に続く

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【2016/12/05 12:38】 | 幕末・維新
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