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 島津久光は、自らが兵を率いて上京する計画を立てるに際し、朝廷工作を試みるため、当時、股肱の家臣の一人であった中山尚之介を、文久元(1861)年11月9日、京都に派遣しました。
 久光の腹心であった小松帯刀の日記、『小松帯刀日記』(鹿児島県史料集22)には、11月9日の項に、「中山岸良上京被仰付今日出立ニ相成候事」と書き記されています。
 実は、大久保の改名の時期を解き明かす大きなヒントは、『大久保利通伝』や『大久保利通文書』ではなく、この『小松帯刀日記』にありました。

 大久保が久光から深意を聞いた2日後の文久元(1861)年12月18日、久光は大久保に対して、中山に続いて上京し、公家の近衛家と折衝するように命じました。
 実はこのことも『小松帯刀日記』の12月18日の項に記されているのですが、そこには、


一 大久保正助殿上京被仰付候事


 と書かれており、この記述から、12月18日の段階においても、大久保がまだ正助と名乗っていたことが分かります。
 そして、大久保はその一週間後の文久元(1861)年12月25日、準備を整えて、京都に向けて出発しました。
 実は、この上京は大久保にとって初めてのことでした。いわゆる初上京ということです。この上京は、大久保にとって外交官としての本格的な対外デビューとも言えます。

 鹿児島城下を出発した大久保は、出水筋(西目筋)を通り、肥後の水俣にさしかかると、偶然にも京都から帰国途中の中山尚之介とばったり出くわしました。
 中山から京都の情勢について詳しく話を聞いた大久保は、一度鹿児島に戻って久光や小松の指示を仰ぐ必要があると判断し、翌12月26日、二人は揃って鹿児島に戻りました。
 その後、大久保は小松や中山と相談のうえ、善後策を講じた後、2日後の12月28日、京都に向けて再び出発することになるのですが、注目すべきは、その前日の12月27日に書かれた小松の日記です。
 小松の日記には次のように記されています。


一 大久保一蔵御用ニ而呼返シ八ツ前ヨリ被参居候


 大久保が鹿児島に引き返し、小松の屋敷に相談に来たことが書かれた箇所ですが、この小松の日記では、大久保の名前が「正助」ではなく、「一蔵」に変わっています。
 つまり、12月18日、京都に行くよう命じられた大久保の名前は「正助」であったにもかかわらず、12月27日、一旦鹿児島に戻った時の大久保は「一蔵」になっていたということです。

 この『小松帯刀日記』の記述から判断すると、おそらく大久保は、久光から上京を命じられるに際し、「一蔵」と改名したものと考えられます。鹿児島を出発後、いきなり改名することなどあり得ないでしょうから、おそらく最初に鹿児島を出発した12月25日の段階で、大久保は既に「一蔵」に改名していたと考えるのが自然だと思います。

 となると、上京の命令を受けた文久元(1861)年12月18日から、鹿児島を出発した12月25日までの約1週間の間に、大久保は「正助」から「一蔵」に改名していた可能性が高いと言えます。
 前述しましたが、この時の上京は、大久保の外交官として本格的なデビュー戦のようなものです。大久保自身、気負い立つような状態であったと思いますので、その決意を込めての改名だったのかもしれません。
 また、久光から改名するように言われた可能性もありますね。

 文久元(1861)年12月28日、既に正助から一蔵へと改名していた大久保は、鹿児島を再出発した後、年が明けた文久2(1862)年1月5日に下関に到着しました。
 大久保はその足で白石正一郎の屋敷に立ち寄ったことから、白石はその日の日記に、「正月五日薩州大久保一蔵君上下四人來駕急ニ御上京ナリ」と記したということで、前回紹介した『白石正一郎日記』の記述と完全に辻褄が合います。

 大久保は大変筆まめな人物で、その生涯で膨大な日記を書き残していますが、残念ながら文久元(1861)年に書かれた日記は、12月1日から12月16日までしか現存していません。12月16日と言えば、大久保が久光の深意を聞いて感激したというあの日です。
 大久保の性格から考えると、改名したのであれば必ず日記に書き残していたでしょうし、また、もし上京にあたって久光から改名するように命じられたのであれば、必ずその旨を記していると思われますので、12月16日以降の日記が残っていないのは、大変残念です。

 以上、少し長くなりましたが、私の調べた限りでは、大久保が「正助」から「一蔵」に改名したのは、文久元(1861)年12月18日から同年12月27日までの10日間の間で間違いないと思いますが、可能性としては12月25日までの約1週間の間が高いと思います。
 その期間、もちろん西郷は奄美大島に居る状態ですから、そんなことは知る由もありません。

 最後に、一つだけ余話を。
 生前の大久保を知る関係者から、大久保の逸話などを聴き取り、それをまとめたものに、松原致遠『大久保利通』という書籍がありますが、この中で元薩摩藩士で海軍中将の松村淳蔵が、「一蔵と言ったのはズッと後ぢゃ。お側役になってからの事ぢゃ」と語っていますが、これは完全な記憶違いです。大久保が側役に昇進したのは、文久3(1863)年2月10日のことですから、一蔵に改名して既に一年以上月日が経っています。

 以上、私が調べた結果ですが、何分手持ちの資料で調べた結果ですので、もし大久保が改名した詳しい日付が書かれている史料をご存知の方は、是非ご教示願います。


おわり

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【2016/12/08 18:00】 | 幕末・維新
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