西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
 文久2(1862)年2月15日、西郷隆盛が島津久光に初めて拝謁した際、西郷が久光に対して、「地五郎(じごろ。田舎者の意味)」と言ったという逸話については、西郷関係書籍なら必ず記載のあるエピソードですが、その元となった元薩摩藩士の市来四郎が史談会で語った内容をそのまま引用して使用しているものが少ないと思いますので、これを機会にその箇所を全文抜粋してみたいと思います。
 明治26年10月16日に開かれた史談会の席上で、市来は次のように語り遺しています。


それから久光公は西郷に仰しゃるには、昨晩中山などと議論が合わなかったようだが、其方の論を腹蔵なく聞きたいと御仰ったようです。
西郷上申するには左様でござりました、少し暴言も申しましたと云った。
それは大略聞いたが繰り返して昨晩の大要を聞きたいと仰った所に、左様なら申上げましょうと云って第一に云うには、拙者は斉彬公の如くではなく地五郎だからひょっと出て、天下大小名を駕御することは出来ないという論であった。
其の所は西郷だけ明白に憚らず云ったと御話しでござりました。
(原書房『史談会速記録 合本四』第十九輯より抜粋)
(読みやすくするため、旧字や改行などは筆者が改変しました)



 確かに、市来の語るところでは、久光は「西郷だけ(に)明白に憚らず(地五郎と)云った」と話していたとなっていますが、この証言の前段に、久光が「昨晩中山などと議論が合わなかったようだが、其方の論を腹蔵なく聞きたい」と言い、西郷が「左様でござりました、少し暴言も申しました」と返し、さらに久光が「それは大略聞いたが繰り返して昨晩の大要を聞きたい」と言った部分が、この「地五郎発言」の重要な肝になるのではないかと私は考えています。

 もう少し具体的に言うと、西郷が久光に初めて拝謁した前日の晩に(実際は2日前の文久2(1862)年2月13日のことだと考えられますが)、西郷が「暴言も申しました」と久光に言った部分です。
 つまり、私が考えるに、西郷の「地五郎発言」は、西郷が久光に対して面と向かってそう言ったのではなく、西郷が久光と初めて拝謁した日の2日前、2月13日に、西郷が久光の腹心であった小松帯刀、中山尚之介、大久保一蔵ら三人と話し合いをもった席上で出た言葉だったのではないかということです。

 久光は、西郷と会う前に中山からその時の顛末を事前に聞いていたため、西郷と初めて会った際、「昨晩中山などと議論が合わなかったようだが、其方の論を腹蔵なく聞きたい」と言ったわけですが、その際に久光が、

「その方、わしを地五郎だと申したそうじゃな」

 というようなことを、久光は西郷に向かって言ったのではないでしょうか。
 そして、その久光の言葉を受けた西郷が、

「恐れ入りつかまつりもす。誠に失礼ではございもしたが、そのように申しあげもした」

 という感じで、西郷が久光に返答したのではないでしょうか。
 つまり、西郷が自発的に久光に対して「地五郎」と言ったのではなく、久光がその前の発言を持ち出す形で、西郷に確認する、一種仕向けるような形でそう言ったのではないかと推測しているのです。

 ただ、これはあくまでも私の推測であり、そのことを裏付ける証拠は全くありません。
 しかしながら、

 1.この逸話を語ったのが、久光本人ではなく、西郷嫌いで有名な市来であること。
 2.久光が二日前の出来事を前日の晩と記憶違いしているなど、この談話は正確性に欠ける部分があること。


 など、この市来の談話には少し懐疑的な部分もあるため、市来が語った内容をそのまま額面通りに受け取るのはいかがなものかと考えています。
 平たく言えば、市来によって、話が盛られている可能性があるということです。

 薩摩藩研究史の大家で、薩摩藩関連の膨大な研究論文を書き遺された芳即正氏は、「西郷隆盛と島津久光」(西郷南洲顕彰会発行『敬天愛人誌』第6号所収)の中で、

「私もこの時西郷が初めて会見した国父久光に、軽蔑の意を込めてこんな表現をしたとはどうしても思えない」

 とお書きになられていますが、私も同感です。
 いかに西郷と言えども、言わば君主であった久光に対して、面と向かって「地五郎(田舎者)」と言ったとは、私にはどうしても考えづらいのです。


(3)に続く

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【2016/12/21 12:10】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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