西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
 話はどんどん林真理子さんの原作『西郷どん』から大きくそれてしまいますが、これまで書いてきたとおり、西郷と久光は、険悪なムードの中、お互いに初めて顔を合わしたわけですが、西郷が抱いていた久光に対する嫌悪感は、西郷の一方的な思いであって、久光自身は西郷に対して何も悪いことはしていません。
 逆に、西郷は久光の許しを得て奄美大島から鹿児島本土に戻ってこられたわけですから、西郷にとって久光は、恨みの対象ではなく、恩人であるとも言えます。

 西郷が久光に対して嫌悪感を持つに到ったのは、ひとえに「お由羅騒動」と呼ばれる一連のお家騒動(島津家27代藩主・斉興の後継争いに起因したお家騒動。当時正室の子で世子であった斉彬を擁立する派と側室・由羅の方の子である久光を押す派が対立した)に起因すると思われますが、このお家騒動に関して言えば、当時藩主であった斉興と斉彬擁立派との対立であって、久光自身が自ら藩主になるために陰で何か動いていたと言うことはありません。この騒動に関してのみ言えば、久光は一種蚊帳の外に置かれていた状況で、傍観せざるを得ない立場でした。

 ただ、久光が藩内にこのような騒動が生じていることを全く知らなかったという伝承もありますが、さすがにそれはあり得ないでしょう。当時は切腹者や遠島者など多数の処罰者が出て、城下は少なからず騒然としていたでしょうから。
 しかしながら、久光がこの騒動の中心に居なかった(中心人物でなかった)ことは確かです。それを示すかのように、斉彬が藩主に就任してからも、斉彬と久光の仲は良好以上の関係でした。藩主の座を争った二人でしたが、それはあくまでも間接的なものであったため、お互いにわだかまりは全く無かったと言えます。おそらく西郷も、斉彬の口から久光が非常に頼もしき人物であるとの評価を耳にしていたのではないでしょうか。

 しかしながら、西郷自身の性格から考えると、やはり久光が斉興の側室・由羅の方の子供であったことが、大きなわだかまりとして残っており、そのことが、西郷が久光を生理的に受け付けられなかった大きな要因になっているような気がします。
 「お由羅騒動」は、若き日の西郷に多大な影響を与えました。西郷は同志への書簡の中で由羅の方を「奸女」とまで書いていますので(安政元(1854)年8月2日付け、福島矢三太宛書簡)、敵として考えていた由羅の方の子供である久光のことを生理的に受け付けられなかったのではないかと思います。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎し」の感覚ですね。

 ただ、その由羅の方の子供の久光が、西郷自らが神とも崇め奉った斉彬をまるで模倣するかのように、国事に参画しようとしたことが、西郷自身の感情を著しく悪化させたという論がありますが、この点は少し慎重に考える必要がありそうです。

 前々回に紹介しました、万延元(1860)年2月28日付けで、西郷が大久保正助他三名宛てに出した書簡、西郷が久光のことを「周公旦」になぞらえて褒め称えていることが書かれてある書簡ですが、この書簡の中で西郷は、

「主上確乎渉りなされ候との御事、何とも申し難く本朝の大幸と敬仰此の事に御座候」

 と、島津久光・忠義の父子が、斉彬の遺志を受け継いだことを「本朝の大幸」と手放しに喜んでいます。
 この書簡の記述から考えると、久光の国事乗り出し自体が、西郷の感情を悪化させたとは考えにくく、やはりその他の要因が複雑に交じり合った末、西郷が久光に悪感情を持つに到ったと解釈した方が良いと思います。

 以上のように、西郷と久光の関係を考えるにあたって、この辺りの状況判断は非常に難しいと言えます。
 つまり、西郷の書簡から見る久光像と西郷帰還後の久光への態度に大きな相違が生じているからです。


(4)に続く

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【2016/12/26 12:10】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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