西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
 どんどん話が大きくそれていますが、林真理子さんの『西郷どん』(第11回)の中でも、西郷と久光の確執は通説通りの形で描かれていますが、そんなことよりも私が少し気になったのは、久光の率兵上京の目的が「雄藩連合」であるかのように描かれていることです。

 例えば、作中で西郷は、上京を計画する久光の考え方を「もはや幕府などあてにならぬ、自分(久光のこと)を含む有力諸藩が連合して、幕政を行なうというこっじゃ」と語ったり、また、「薩摩ら雄藩によって幕政を立て直す、天皇のお出ましにより、公武ご合体を実現させ、雄藩が深く結びつくことを考えちょっとじゃ」と代弁しています。
 後半の部分はまだしも、前半の「有力諸藩が連合して、幕政を行なう」という発言部分は、読者に少し誤解を与える書き方だと感じました。

 雄藩連合と言えば、後年、久光が「参預会議」を興したり、西郷が「四侯会議」の形でその実現に奔走することになりますが、久光が上京を計画した文久2(1862)年初頭の段階では、久光にそのような具体的なグランドプラン(構想)はなかったと思います。
 文久2(1862)年3月に久光が薩摩から兵を率いて上京した目的や趣旨については、町田明広先生が『島津久光=幕末政治の焦点』(講談社選書メチエ)の中で詳しく検証されていますが、町田先生は久光上京の目的を「皇国復古(皇政回復)」というキーワードを使用して詳細に説明されています。

 久光が上京しようと考えた理由を私の考えを元に極々簡単に説明すると、「諸外国との修好通商条約の無勅許締結」や「安政の大獄」などで地に堕ちた朝廷の権威をまずは復権することを目的とし、その上で幕府に対し制度改革(幕政改革)を迫るというもので、後年考えられたような、雄藩が連合して幕政に参画することを意図したものではありません。
 端的に言えば、久光は「朝主幕従」の政治形態を取り戻そうと考えたということです。町田先生は「天皇親裁体制」と書かれていますが、つまり朝廷を中心とした政治体制の復活です。

 確かに、久光が上京する前、久光の命を受けた大久保一蔵が上京し、近衛家に対して提出した書付けには、長州藩や仙台藩など諸藩に対して、別途勅許を下すことを要望する項目がありますが、それはあくまでも幕府が久光の改革案を拒否した際に諸藩連合して事にあたるための備えであり、まだこの時点で久光の考えの中には「雄藩連合政権構想」は無かったと言えます。(時の孝明天皇の意向として、薩摩藩や長州藩など雄藩の藩主を五大老に任じるということなどもありましたが、これは雄藩連合政権構想と呼べるような代物では無いでしょう)
 それから考えると、『西郷どん』の中の西郷の語り口は、少し誤解を与えるようなものだと思います。

 ちなみに、またまた話がそれますが、先程紹介した『島津久光=幕末政治の焦点』の中で、久光が当初の上京出発日を文久2(1862)年2月25日から3月16日に変更したのは、従来から通説とされているように奄美大島から帰還した西郷が計画に反対したことが原因ではなく、久光の二の丸への移住(藩主待遇となった久光が重富邸から城内二の丸に移住することになった)が遅れたことによるものだとしています。
 確かに、『伊地知貞馨事歴』所収の小松帯刀の文久2(1862)年2月29日付け堀次郎(伊地知の前名)宛ての書簡には、


泉公去ル廿五日御發駕之御賦御座候處二丸御作事等相運譯共有之來月六日ニ御首途十六日ニ御發駕之儀被仰出最早無余日相成申候

現代語訳by tsubu
(久光公は去る二十五日(京都へ向けて)ご出発なされる予定でしたが、二の丸の普請が予定通りいかなかったことから、来月六日に(二の丸に)移り住むことになり、十六日にご出発なされると仰せ出されたため、最早余日いくばくもありません)


 と書かれており、久光の出発が遅れたのは二の丸普請が計画通り進まなかったからだと説明していますが、果たしてどうでしょうか。
 この小松の記述が、西郷の反対が原因で久光の出発が遅れたということを完全に否定できるものではないという風に私は感じています。
 確かに、表向きは「二の丸普請の遅延のため」だったのでしょうが、各諸書及び諸伝に伝えられている通り、西郷の反対が久光の上京を遅らせる一つの要因になったことまでを否定できるものではないと考えるからです。

 例えば、前回紹介しました、西郷がこの辺りの顛末を詳細に記した、文久2(1862)年7月の木場伝内宛ての書簡には、

「愚考の形行残さず申し上げ候処、二月廿五日御発駕召し延ばされ、三月十六日と相成り申し候(久光に対して自らの愚考を包み隠さず申し上げたところ、2月25日の出発を延期し、3月16日の出発に変更となった)」

 と書かれており、西郷自身は自らの発言により、久光が上京を延期することになったとしています。

 確かに、対外的に考えても、藩として「一家臣の反対があったので」とは口が裂けても言えません。
 もちろん久光の二の丸移住が遅れていたことも大きな原因であったでしょうが、それだけではなく、西郷の反対もまた、久光の出発が遅れる一つの要因になったと解釈した方が当時の状況を考えると自然のような気がします。

 またもや話がそれましたが、『西郷どん』第11回では、久光の率兵上京計画を深く掘り下げることも無く……、淡々と話は進み、西郷が久光の逆鱗に触れ、徳之島へ遠島となった後、沖永良部島に流され、過酷な待遇を受ける様子が描かれます。
 このような話の進み方から考えれば、確かに既に連載を半分くらいは終えているのかもしれませんね。

 私は最初から『西郷どん』を読んでいるわけではありませんが、これまで読んだ率直な感想を書くと、このような女性目線での西郷隆盛像を描くのであれば、昔、作家の阿井景子さんが執筆された『西郷家の女たち』のように、西郷に関わった女性たちを堂々と主役に据えた方が良かったと思います。
 それこそ西郷周辺の女性たちを列伝風にして短編で書いた方がより効果的で、かつ面白くもあったような気がします。

 この展開で話が淡々と進むのであれば、この『西郷どん』を原作として大河ドラマを構成するのは少し難しいのではないかな……、という気がしてきました。
 確かに、平成2(1990)年の大河ドラマ『翔ぶが如く』も、司馬遼太郎氏の原作が明治期だけの話であるため、脚本家の小山内美江子さんは、他の司馬作品(『竜馬がゆく』、『酔って候』など)を参考にして脚本をお書きになられていましたが、どう考えても今回の原作『西郷どん』だけで脚本を書くのは、少し難しいような気がします。
 おそらく脚本家の中園ミホさんの創作が、かなり色濃く入らざるを得ないのではないでしょうか。
 以前温かく見守りましょうと言った矢先から少し懐疑的なことを書いてしまいましたが、非常にボリュームのある西郷の生涯を一年間のドラマにすることを考えれば、正直林さんの原作では短すぎるような気がします。(単発の二~三時間ドラマなら全然オッケーなのでしょうが)

 と言う訳で、『西郷どん』の感想を書いている内に全然違う方向に話がそれてしまいましたが、今年の書き込みはこれで終了したいと思います。
 今年もあと少しで終わりですね。
 このブログについては、なかなか訪問者(閲覧者)が増えず、かなり苦戦しておりますが、今年一年もご愛読頂きましてありがとうございました。
 これからも頑張って色々な話題を書いていきたいと考えておりますので、来年もどうぞよろしくお願いいたします。

 それでは、皆さま、良いお年を!

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【2016/12/30 12:00】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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