西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
 新年、明けまして、おめでとうございます。
 本年も西郷隆盛のホームページ「敬天愛人」をよろしくお願いいたします。


 私がこの西郷隆盛のホームページ「敬天愛人」を開設したのは、今から17年以上前の1999年9月24日のことです。途中体調を崩し、なかなか更新できない時期もありましたが、振り返れば長い間やってきたものです。
 私がホームページを開設した当時は、他にも幕末の歴史系ページがたくさんありましたが、今やそのほとんどが活動停止状態に陥っています。
 確かに、今のネット社会は、ホームページからブログ、フェイスブック、ツイッター、インスタグラムなどに媒体自体が移行し、個人でホームページを作成・運営することが流行らない時代となりましたが、私としましては、西郷生誕200年にあたる2027年を目指して、これからも頑張っていきたいと思いますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 さて、新年が始まったばかりなのに来年のことを言うのは鬼が笑いますが、来年平成30(2018)年は、明治維新150周年にあたる年です。
 昨年くらいから、鹿児島では大々的に「明治維新150周年」を謳い、シンポジウムを始めとする様々なイベントが企画・開催されています。
 また、来年はNHKの大河ドラマとして『西郷(せご)どん』が決まり、鹿児島はとても盛り上がっている状態ですが、以前、平成28年9月1日付けのブログ「週末は歴史漬け①-五代友厚のチャレンジとイノベーション-」の中でも少し触れたとおり、明治維新150周年の節目を迎えるにあたって、「鹿児島における明治維新史の再検証」が重要なポイントになってくるのではないかと思っています。

 時はだいぶ遡り、明治維新100周年を迎えた年、つまり昭和43(1968)年はどうであったかと言うと、やはり鹿児島における明治維新と言えば、西郷隆盛であり、大久保利通が全てであったと思います。
 当時「明治百年」という言葉が頻繁に使われ、それに伴う記念事業がたくさん行われ、また、関連書籍なども多数出ましたが、今それらを読み返してみても、やはり「薩摩藩=西郷と大久保」がキーワードとなっているものが多く、鹿児島で語られ、そして研究されてきた明治維新史は、どちらかと言えば、西郷と大久保が中心であり、彼らの「英雄伝」的な側面が色濃く出ていたように思います。
 少し言葉が過ぎますが、彼らが明治維新における「スーパーマン」のような存在として描かれ、さも二人の活躍で明治維新が成立したと言わんばかりの勢いで語られる傾向がややもすればあったのではないでしょうか。

 確かに、西郷と大久保の二人が薩摩藩の明治維新の原動力となったことは間違いありません。彼らの残した功績は偉大と言えます。
 しかしながら、西郷や大久保の二人の活躍だけで歴史を動かせたわけがなく、彼らを取り巻く様々な人物、例えば、島津斉彬であり、島津久光であり、そして小松帯刀といった数多くの存在があってこそ、二人は縦横無尽に活躍でき、幕末という大きな歴史を動かしたと言えます。
 平成30年に明治維新150周年の節目を迎えるにあたり、薩摩藩の明治維新を少し違う角度からも眺め、多角的にそして多面的に見つめ直すことが重要なのではないでしょうか。

 誤解されては困りますが、これは西郷や大久保を否定しているわけではありません。そのような狭小な考え方ではなく、

「薩摩藩の明治維新史を正確に理解するためには、新たな視点を持つことが重要になってくる」

 ということを意味していると、ご理解頂ければと思います。
 また、もちろんそれに併せて、西郷と大久保の再検証も必要となってくるでしょう。
 彼らは明治維新における偉人と崇め奉られたことから、実像以上に虚像部分が肥大化し、独り歩きしている面も多々あることから、彼らの生涯を再度点検し直し、「新たな西郷像や大久保像を再構築する」ということも併せて必要になってくるのではないかと感じています。


 少し前置きが長くなりましたが、薩摩藩における明治維新史を捉えなおすにあたり、私自身が考える、幕末の薩摩藩における西郷と大久保以外の新たなキーパーソンを前期と後期の二期に分けて挙げるとすれば、やはりこの四人ではないかと思います。

(前期)島津斉興と調所広郷
(後期)島津久光と小松帯刀


 小松を除き他の三名は、どちらかと言うとこれまでの歴史では「悪者」として扱われ、数ある幕末関係の小説の中でも、余り良い形では描かれていません。
 しかしながら、明治維新において、薩摩藩があれだけの大きな存在感を示し、そして多くの人材を輩出して活躍できたのは、その元を質せば、やはり島津斉興と調所広郷の二人が窮地に陥っていた薩摩藩の財政を立て直したことに尽きると言えます。
 その点から言えば、二人の功績は薩摩藩の幕末維新史において非常に大きかったと言えますが、英名君主と謳われた斉彬との関係から、二人は悪者という風に捉えられ、常に悪人扱いです。
 小説であればそういった描き方も致し方ないのかもしれませんが、薩摩藩の明治維新史を正確に理解するにあたっては、二人の功績を再認識することは最も重要なことなのではないかと思っています。
 特に調所に関して言えば、後年完膚なきまでに否定され続けた人物ですので、調所の復権は必要不可欠になってくるのではないかと思っています。

 幕末初期の薩摩藩と言えば、やはりどうしても島津斉彬という人物がキーパーソンとして挙げられがちですが(私も若い頃はそう考えていました)、斉彬の活躍は、斉興と調所が作り上げた基礎があったればこそであり、もし斉興と調所が作り上げた財政的な基盤が無ければ、斉彬は幕末期にあれほどの存在感を示し得なかったのではないでしょうか。
 斉興と調所が耕した土地に斉彬が良質な肥料を巻き、そしてその肥沃な土地を背景に国事に参画していったのが島津久光であり、そしてそれを支えたのが小松帯刀でした。
 随分昔からこれまでホームページの掲示板等にも書いてきましたが、西郷と大久保の活躍は、小松帯刀や桂久武といった、とても頭脳明晰で優秀な門閥家老が居たからこそ可能であったということを決して忘れてはなりません。

 つい先日も本ブログ内で書きましたが、幕末という時代は純然たる封建制の世の中です。いかに西郷や大久保が優秀であったとしても、彼らの力には限界があり、桂や小松といった上級武士層の協力なしには、藩政を動かすことなど到底叶わなかったのです。
 そのため、薩摩藩の幕末史を見ていると、要所で必ず小松や桂の存在が出てきます。薩長同盟しかり、薩摩藩の倒幕路線しかりです。
 その点から言えば、薩摩藩の明治維新史における小松の功績というのは、とてつもなく大きなものだったと言えます。
 また、島津久光ですが、彼は西郷との確執で、どうしても悪者として見られがちですが、もし久光が凡庸な人物であったとしたならば、薩摩藩はあれほど幕末史において活躍することは出来なかったと思います。それは他藩の状況を見れば明らかです。
 久光が聡明で、かつ薩摩藩を一つに束ねられる能力があったからこそ、薩摩藩は水戸藩のように空中分解することもなく、明治維新史に多くの人材を輩出し得たと言えるのではないでしょうか。

 新年早々またもや長くなりましたが、来年明治維新150周年の節目を迎えるにあたって、私自身も新たな視点から薩摩藩の明治維新史を見つめ直したいと思っています。

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【2017/01/06 18:30】 | 幕末・維新
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