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 今年の正月も妻の実家の宮崎で過ごしたのですが、そのついでに少しだけですが島津家ゆかりの城下町である佐土原(さどわら)の史跡を巡ってきました。
 下記の画像(写真)は、その際に立ち寄った「島津御殿跡」の石碑です。

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 佐土原藩最後の藩主である島津忠寛(ただひろ)は、明治4(1871)年7月の廃藩置県により、藩知事を免ぜられ、10月に東京に移住することになったのですが、その際に旧領の佐土原にも別邸が必要ということで新たに屋敷が建てられました。
 これが「島津御殿」と呼ばれるものですが、現在は石碑のみが建てられているだけで、往時を偲べるような建物は何も残っていません。石碑の前に建てられた木札によると、島津御殿は戦後移築されたようで、現在は玄関の石垣のみが少し残っているような状態です。
 ただ、島津御殿跡のすぐ前には、御殿下医院なる病院もあり、御殿という名が土地に根付いたものであることが想像できました。今では石碑と石垣だけになってしまいましたが、当時はさぞかし大きな屋敷が建っていたのでしょう。
 ちなみに移築された建物は「臨江亭」と呼ばれたそうですが、昔、宮崎市内に「ホテル臨江亭」という宿泊施設があり(現在は取り壊されてありません)、それと何か関連があるような気がしますが、詳細は調べていないので分かりません。(ご存知の方はご教授ください)

 佐土原は宮崎市の北方に位置する小さな町ですが、江戸時代には佐土原藩2万7千石の城下町でした。
 江戸藩政時代、佐土原藩の城主は島津家でした。佐土原島津家は、いわゆる薩摩藩の島津家の分家筋にあたります。
 佐土原藩の藩祖(初代藩主)は、島津以久(もちひさ)という人物です。
 この「もちひさ」を「ゆきひさ」と読んでいる書物が多数ありますが、名前の読み方は諸説あってどちらが正しいとは言えないようです。
 佐土原町教育委員会発行の『佐土原藩史』では、「ゆきひさ」とルビをふっていますが、「ゆきひさ」という読み方は、以久の前名の「幸久」から来ているものと推測されるのと、個人的には「以」の字を「ゆき」と読むのは少し無理があるような気がしますので、ここでは便宜上以久(もちひさ)とします。

 さて、その以久の父は、島津家中興の祖と呼ばれる島津貴久の弟・島津忠将(ただまさ)です。
 つまり、以久は、戦国期の武将として名高い島津義久、義弘兄弟の従兄弟にあたります。
 以久の父の忠将は、智勇共に優れた武将で、兄の貴久をよく支えましたが、永禄4(1561)年、大隅の豪族・肝付省釣(兼続)との戦いで戦死しています。
 私も詳しくは知りませんが、前出の『佐土原藩史』によると、以久も父に劣らず、知勇兼備の武将であったそうです。
 この辺りの簡単な家系図を書くと次の通りです。


忠良(日新斎)

貴久-忠将
│    │
義久  以久(佐土原藩祖)
義弘
家久

豊久


 佐土原という土地は、元々は義久や義弘の弟である家久が治め、家久の死後はその子の豊久が治めていました。
 しかしながら、その豊久が「関ヶ原の戦い」で戦死したため、以久がその所領を引き継ぐことになりました。これが幕藩体制下における佐土原藩の誕生です。
 佐土原藩が薩摩藩の分家と言われるのはこういった所以からですが、以久をもって始まった佐土原藩は、幕末を迎えた頃には11代を数え、最後の藩主が最初に紹介した島津忠寛です。

 島津忠寛という人物は、薩摩藩の幕末史の中でもちょくちょく名前が出てくる人物です。
 例えば、昨年末にこのブログでも書きましたが、文久2(1862)年3月、島津久光が薩摩から兵を率いて上京した際、当時江戸にいた島津忠寛は、京・大坂に浪士たちが集結し、不穏な企みがあることを知り、大坂に入った久光に対して使者を送りました。
 忠寛は久光に対し、京には入らずに、そのまま直接江戸に参府するよう意見したことが『島津久光公実記』の中に出てきます。


淡路守君忠寛亦使者ヲ馳セ公ニ勧めムルニ京師に入ラスシテ直ニ参府スヘキヲ以テス


 これがその部分ですが、忠寛は久光がある京に入ることにより、不測の事態が生じることを案じたのです。
 結局、久光の入京後、薩摩藩士同士が相討つ「寺田屋事件」が生じたのですから、忠寛の見通しは正しかったと言えましょう。
 ただ、忠寛に限らず、久光が京に入ることで、何かしらの騒動が生じるであろう危惧は、他の大名にも少なからずありました。

 ちなみに、その後久光は勅使・大原重徳と共に江戸に下り、幕府に対して幕政改革を要求するに到りますが、その江戸滞在中、藩主・忠義の名代として働いたのが、島津忠寛でした。
 久光は薩摩藩内では藩主・忠義の実父として身分が高い人物でしたが、当時は無位無官、幕府から見れば、単なる陪臣の身分に過ぎません。そのため、江戸城に登城する資格も無い久光に代わって、忠寛が薩摩藩主の名代となったわけです。

 また、その忠寛ですが、久光が江戸に滞在中、何と久光を薩摩藩主にするべく運動を起こしています。
 越前福井藩の中根雪江が書き記した『再夢紀事』には、次のように書かれています。


七月廿六日今日御登城前御兼約にて島津淡路守殿へ御逢有之御内談之次第ハ當薩侯修理大夫殿幼年病身ニ付三郎殿當代に建度との修理大夫殿内願之由

現代語訳 by tsubu
文久2年7月26日、松平春嶽公が江戸城に登城する前、かねてからの約束で、島津淡路守忠寛殿とお会いになった。御内談の内容は、薩摩藩の当主である島津修理大夫忠義殿は幼年であり(と言っても、当時忠義は22歳)、かつ病身でもあるため、三郎殿(久光のこと)を当主に立てたいと、島津修理大夫忠義殿の内願があるとの話であった



 この記述によると、忠寛曰く、「久光の薩摩藩主就任」については、久光の子の藩主・忠義の内願であるとしていますが、鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏は、その著書『西郷隆盛』の中で、久光の意向だったと推測しています。
 私も同感です。久光の性格からして、忠寛が久光の指示なく、勝手にそのような訴えを起こすとは考えられないからです。
 ちなみに、この忠寛の話を聞いた前越前福井藩主の松平春嶽は、「倫理戻り候故御不同意之趣(倫理にもとる行為である故、同意しない)」と答えたと、『再夢紀事』には書かれています。
 確かにそうでしょう。自分の子供を廃して、父親自らが藩主に就任するということは、春嶽ならずとも、倫理上憚る行為であると感じたことでしょう。

 以上のように、久光が江戸に滞在中、忠寛は重要な役回りを演じていますが、その他にも佐土原藩全体で見れば、薩英戦争後に行われた横浜における薩摩藩とイギリスの講和談判においても、久光と忠寛の命を受けた佐土原藩士の樺山久舒(ひさのぶ)、能勢直陳(なおのぶ)が談判に参加し、重要な働きをしている事実もあり、当時の佐土原藩は、宗家である薩摩藩と密接な関係で結ばれ、共に一体となって幕末・明治維新という時代を行動したと言えます。

 以上のように、佐土原という町は、「もう一つの島津家の町」として、非常に歴史深い場所であるとも言えるのですが、残念ながら、明治10(1877)年の西南戦争において、佐土原も戦場となったため、今は往時を偲ばせるような建物は数少なく、城下町の風情を感じさせてくれる場所は余り残っていないのが現状です。
 また、佐土原という町は、元々「宮崎郡佐土原町」として独立した自治体だったのですが、2006年1月1日に宮崎市に編入されてしまいました。
 ただ、佐土原という地名は、まだちゃんと残っているので、それがせめてもの救いですね。

 最後に話はガラッと変わって、佐土原への史跡巡りのついでに、もちろん宮崎グルメも堪能してきました。
 下記の画像(写真)は、佐土原の隣町、宮崎県児湯郡新富町にある「うなぎの比恵島」さんの「うな丼 大(2,112円)」です

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 以前にもブログで書きましたが、宮崎のうなぎには「きも吸い」ではなく、「呉汁(ごじる)」が定番です。
 呉汁とは、水に浸して柔らかくした大豆をすり潰し、それを絞ったものを入れた味噌汁のことですが、これが濃厚で、味噌が引き立って風味が良く、美味しいんですよね。
 先に呉汁のことを書いてしまいましたが、「うなぎの比恵島」さんは養鰻場が経営しているお店ですので、もちろんここの「うなぎ」は最高に美味しいです。
 また、このお店はご飯がとても美味しいので、うな丼は最高です。宮崎に行かれた際には、是非味わって頂きたい「うなぎ」です。

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【2017/01/18 18:00】 | 史跡巡り
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