西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
 2018年NHK大河ドラマ『西郷(せご)どん』の原作、林真理子さんの『西郷どん』(月刊「本の旅人」(角川書店発行)に連載中)の第12回の感想です。

 第12回は、沖永良部島での西郷の遠島生活から物語が始まりますが、またもやアッと言う間に月日が進み、西郷が赦免されて京都に赴き、物語の後半には「池田屋事件」が起こり、「蛤御門の変」前夜までが描かれます。
 以前にも書きましたが、『西郷どん』は物語の進行が非常に早いです。この小説が西郷隆盛の生涯をダイジェスト的に描いているのは分かりますが、重要な歴史的事件や事項を、大久保が西郷に語って聞かせる形式で淡々と説明して進むので、幕末の歴史を知らない読者が、果たして話に付いていっているのかどうか少し心配です。

 鹿児島出身の歴史作家・海音寺潮五郎氏は、「西郷という人は、幕末・維新史全体の上に浮かべないと、真の姿がわからない」と、その著書『西郷隆盛』の中で語っていますが、まさに同感です。例えば、西郷が南島に潜居して不在であった頃の中央政局の動きをしっかりと押さえておかなければ、元治元(1864)年2月に西郷が復帰してからの行動を正確に理解することが出来ないと思います。海音寺氏は、従来の西郷伝はそのことをおざなりにして描かれているので、西郷の真の実像が歪む原因となっている、というような趣旨のことを書かれていますが、それから考えると、小説という形式で西郷隆盛の全生涯を描き切るのは、少し難しいような気がします。

 話を戻して、『西郷どん』第12回ですが、相変わらず西郷は久光のことを「らっきょう野郎」と呼び(苦笑。これ、何とかなりませんかね?)、その舌鋒はとても厳しいですが、それはさて置き、一点気になったのは、沖永良部島に流刑となった西郷の赦免を藩内の若手藩士たちが小松帯刀に頼み、小松が島津久光に願い出て許されたと描かれていることです。


若者たちが小松帯刀に頼んだところ、快く引き受けてくれた。交渉役として京で揉まれた彼は、人の心を読むことにたけていた。
「もはや国父さまは天下の中枢におつきにないもした」
 とおだてた後、
「こいからは小まわりのきく者が必要ではあいもはんか。あの西郷ならば京の公卿や宮家、江戸の大奥にも顔がききもす」
 と話を持っていったのである。粘り強く頼んだ結果、久光は最後には折れた。わが息子である藩主茂久(忠義)に聞いてみろと言ったのである。

(『西郷どん』第12回から抜粋)


 西郷の赦免については、通説では、久光の近臣であった高崎正風、高崎五六のいわゆる両高崎が、久光の面前において、「もし、西郷赦免の儀、お聞き届けなくば、有志一同、割腹つかまつる所存でございもす」と願い出て、それを聞いた久光が、

「左右みな(西郷のことを)賢なりと言うか……。しからば即ち愚昧の久光一人これを遮るのは公論ではあるまい。太守公(藩主・忠義)に伺いを立てるが良い」

 と言い、藩主・忠義の許可を得て決まったとされています。
 これは『大西郷全集 第三巻』の西郷隆盛伝の中に出てくる話ですが、勝田孫弥『西郷隆盛伝』ではその辺りの経緯がもっと簡潔に書かれています。


文久三年の末、久光の上京するや、諸藩有志の徒は悉く長州に走り公武合体党は皆京師に集まれり。然るに幕府の方針は益其勢権を維持するに傾向し、公武合体も亦佐幕の地位に陥るに及び薩藩の壮士輩は深く奮激する所あり。断然死を決して久光に面訴し、以て隆盛召喚の議を決せんと欲す。黒田清綱等其巨魁たり。高崎五六等之を聞知して大に驚き小松、大久保等に告げ久光に説かしむ。爰に於て隆盛放免の議漸く内定し、吉井友實を以て其使者と為すに決せり。
(読みやすくするため、旧字は改編。句読点は筆者が挿入しました)



 『西郷隆盛伝』によると、黒田清綱を中心とする壮士たちの死を決した西郷赦免運動を聞いた高崎五六らが、驚いて小松や大久保一蔵に告げ、そのことにより西郷の赦免が決まったとなっていますが、文面から察すると、久光を説得したのは、小松または大久保だったということでしょうか。林さんの『西郷どん』は、この記述を根拠として、小松が久光を説得したとしているのかもしれません。

 ただ、西郷の赦免については、小松や大久保が関与しなかったことを裏付ける話もいくつか残されています。
 前出の『大西郷全集 第三巻』所収の西郷隆盛伝には、次のようにその経緯が書かれています。


 元治元年正月、柴山龍五郎、三島源兵衛、福山清蔵、相田要蔵、井上弥八郎等十数名、丸山の某楼に集まって相談した結果、西郷赦免を願ひ出でて若し聴かれずば、一同君前に割腹死諌しようと決し、黒田嘉右衛門(後の清綱)伊地知正治の二人が有志の総代となって久光侯に哀訴しようということになった。
 しかし最初から久光侯に申出るよりか、小松、大久保に説いて、予め同意を得た上で、都合によってはこの二人の何れかから哀訴させようというのであった。
 黒田、伊地知の二人は、先ず小松を訪ねた。小松は大賛成であるが、自分からは願ひ出難い事情があるという。大久保を訪ねた、大久保も大賛成ではあるが、当時嫌疑を受けた一人であるから願ひ出の責に任ずることは出来ぬという。
 そこで、久光近士の高崎佐太郎、高崎五六がよかろうということになり、久光に拝謁の上、先君の御寵臣という一点張で、とうとう赦免を許さるることとなった。
(読みやすくするため、旧字等は筆者が改編しました)



 この記述によると、小松や大久保は、「趣旨は大賛成だが、自分たちからは西郷の赦免を願い出ることが出来ない」として、黒田たちの依頼を断ったことが分かります。
 また、「寺田屋事件」の生き残りの一人である柴山龍五郎(景綱)の事歴を記した『柴山景綱事歴』にも、次のように書かれています。


 西郷ヲ沖ノ江良部島ヨリ帰サンコトヲ久光公ノ御前ヘ出テ嘆願シ、萬一聴ルサレザル時ハ皆割腹シテ以テ死諌セント議ス。其集リシ人々ニハ三島通庸、柴山景綱、永山弥一郎、篠原國幹、椎原小弥田、宮内彦次(此時彦次ハ異論アリ)、吉田清右衛門等なナリ(綱記憶)。
 爾来又三島通庸、福山清蔵、井上弥八郎、折田要蔵、柴山景綱等ヲ始メ、拾何人丸山ニ會シ、是非御帰シアル様公ニ申上萬一聴ルシナクンバ御前ニテ直ニ腹ヲ切ラント決シタリ(正風、五六の記憶)。
 然ルニ其頃君侯ノ御前ニ出テ何事ニ限ラズ申上ル者モ少ナカリシガ、高崎正風、高崎五六ハ御近習通ヲ相勤メ君侯ノ御側近ク出ツル者ナレバ、黙視シ難クヤアリケン共ニ小松、大久保ニ謀ルニ両氏ハ故障アリ、大久保曰ク伏見一挙列ノ沸騰モ甚ダくどい(其時、綱ノ覚エ)ト茲ニ於テ五六自カラ久光公ノ御前ニ出テ、懇願シ
(読みやすくするため、旧字は改編、句読点等は筆者が挿入しました)



 登場人物に差異はありますが、内容は『大西郷全集 第三巻』とほぼ同じです。
 『大西郷全集』、『柴山景綱事歴』の記述を信用するならば、西郷召還を待ち望む藩士たちは、西郷赦免を実現させるため、小松や大久保にその取り成しを依頼したが、二人に断られたため、久光お気に入りの高崎正風、高崎五六の二人に対し、そのことを依頼したということです。『柴山景綱事歴』には、両高崎が久光の側近の者であるため、彼らから久光に願い出れば、久光も黙止することは出来ないだろうと考えたと書かれています。

 私自身の考えとしては、やはり『大西郷全集』、『柴山景綱事歴』の記述の方が真相のように感じます。久光近くに仕える小松や大久保の立場からすれば、二人は久光の西郷嫌いを身をもって経験していますから、西郷赦免を願い出ることは、火に油を注ぐような行為であると考えたに違いありません。特に大久保は、西郷を召還したい気持ちは強かったでしょうが、文久2(1862)年の久光の率兵上京計画の時のこともありますから、久光に対して容易に西郷の赦免を言いだせるような状況には無かったと思います。

 以上のようなことを考え合わせると、やはり小松や大久保は、久光に西郷赦免のことを話すことで、久光の不興を被ることを恐れ、自重したと考えるのが自然だと思います。
 西郷赦免の動きは、通説のとおり、黒田清綱や柴山景綱ら西郷の復帰を待望する若手の藩士たちが中心となり、小松や大久保ではなく、久光お気に入りの近臣であった高崎正風、高崎五六の二人に依頼したというのが真相だったように思います。

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【2017/01/24 12:30】 | NHK大河ドラマ「西郷どん」
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