西郷隆盛、幕末・維新史、薩摩藩に関する話題など、幅広く書き込んでいます
今年のゴールデンウィークも宮崎の妻の実家に帰省したのですが、いつものとおり宮崎周辺の史跡巡りをしてきました。
私自身も宮崎には三年間住んでいましたので、宮崎は庭みたいなものです。
簡単ですが、今回から数回に分けて、その時のことを書きたいと思います。
まず、第一回目は、宮崎県児湯郡高鍋町(こゆぐんたかなべちょう)です。

高鍋は宮崎市の北方、人口2万人ほどの小さな町ですが、江戸藩政時代には高鍋藩2万7千石の城下町でした。
高鍋を治めていた大名は秋月家です。
初代の秋月種長(たねなが)に始まり、最後の藩主種殷(たねとみ)に至るまで、秋月家は10代に渡って高鍋を支配しましたが、その中で最も著名な人物は、6代藩主種美(たねみつ)の次男直松でしょう。
直松と言ってもピンと来ないと思いますが、直松は後に東北の米沢藩に養子に入り、上杉治憲となります。

「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」

の歌で有名な、あの名君・上杉鷹山です。

恥ずかしながら、鷹山が宮崎出身だったということを私も宮崎に住んだ時に初めて知ったのですが、現在、高鍋町と米沢市とは姉妹都市の関係にあり、高鍋町歴史総合資料館には、鷹山に関連する史料の展示もあります。

ただ、私自身の興味は、鷹山と言うよりも、やはり幕末・維新史にあり、そしてその中でも西南戦争です。
高鍋は西南戦争においても戦場となっていますが、高鍋からは「高鍋隊」と称する軍隊が組織され、薩軍に合流して政府軍と戦っています。

『高鍋町史』(第五編近代)によると、明治維新以来、高鍋では何か重要問題が生じると、旧高鍋城内の千歳亭という建物に旧士族たちが集まり、そこで討論の上、進退等を決するという、衆議決定の方法が取られていたそうです。
高鍋ではそのことを「演説会」と呼んでいたそうですが、西郷隆盛が鹿児島で挙兵したことにより、高鍋も動揺し、演説会が開催され、薩軍側に参戦するか、それとも政府側に付くかが討議されたそうです。
その時の演説会には、約800名もの士族が集まったそうですが、議論は紛糾したようです。

そして、ここに秋月種樹(たねたつ)という人物がキーマンとして登場します。
種樹は、高鍋藩9代藩主種任(たねただ)の子として生まれていますが、兄で最後の藩主となった種殷(たねとみ)の養子となりました。
しかし、廃藩置県で高鍋藩は無くなったため、種樹は言わば幻の高鍋藩主となったのです。

種樹は明治天皇侍読を務めていたことから、詩歌に秀で、書家として有名です。
宮崎県内の資料館や顕彰碑などを巡ると、必ず種樹の書に出会うと言っても過言ではないくらい、宮崎県内には種樹の書があちこちにあります。
実際、私の妻の親戚の家にも種樹が書いた書があり、それほど種樹は宮崎に縁が深い人物と言えますが、この種樹が旧高鍋士族の薩軍への参戦に反対しました。
西南戦争勃発当時、種樹は元老院議員を務め、東京に居たようですが、旧高鍋藩が賊軍に加担することを心配し、挙兵に反対する密書を高鍋に送ったようです。
しかしながら、最終的に旧高鍋藩士族は、「高鍋隊」を組織して薩軍に加わり、政府軍と戦うことになるのです。

簡単ですが、以上のような経緯を経て、高鍋隊は組織され、薩軍内の舞台として九州各地を転戦するのですが、高鍋隊組織後も旧高鍋藩士族の中には薩軍への加担に反対する者が多く居たため、その代表格であった旧高鍋藩家老の秋月種節以下九名が、薩軍側に捕縛され、投獄されています。
この時九人が入れられた牢獄は、牢と言っても旧藩の籾蔵だったのですが、実はその籾蔵が現存しています。
「黒水家住宅」という、旧高鍋藩家老の屋敷跡の敷地内に移設されているのです。(写真)

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この籾蔵に閉じ込められた人々を地元では「九烈士」と呼んでいるそうです。
実はこの時私も初めてその建物を見学したのですが、内部は想像した以上に広かったです。
ただ、当時は米俵や道具なども貯蔵されていたでしょうから、九人で生活するにはかなり狭かったかもしれません。
ご多聞に漏れず、高鍋も近代的な街へと変化し、往時を忍ぶことが出来る古い建物はほぼ残っていませんが、この籾蔵だけは、旧高鍋藩時代を偲べるものと言えるかもしれません。

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【2017/05/17 18:00】 | 史跡巡り
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